
ゲーム評「幼辱 〜天使たちの檻〜」 −コンクリート・ジャングル−
「幼辱 〜天使たちの檻〜」紹介ページ(Game-Style)
WestVision「幼辱 〜天使たちの檻〜」(amazon)
あますところなく啓蒙され尽した大地は、勝ち誇った凶徴に輝いている。
(アドルノ、ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」)
「幼辱 〜天使たちの檻〜」をコンプリート…。
本作はとても真摯に創られた良作であり、ロリゲとしてしっかり創られた、
2005年における最高のロリゲ作品の一つ、優れた作品です…。エッチシーン
の出来栄えは、古今東西のロリゲの中の最高峰と云っても過言ではない。
優れた作品故に、問いかけるものが、重く、沈む――。
本作は…本作は、悲劇的で悲観的な世界観をベースに、物語が展開しますが…、
もし、本作の登場人物達が、ふたごえっちの世界〜大自然豊かなる豊饒の故郷〜
みたいなところに、住んでいたら、そこの住人だったら、決して悲劇を迎えなかった…。
本作「幼辱 〜天使たちの檻〜」の優れたところであり、重いところは、自然と人工の対立、
もはや我々は自然を失い、人工的な場にしか住むことはできない現実、そして人工的
な場は自然を屈服させ、自然を破壊して、人工性が全てを支配する現実を、描いている。
この鉄の檻(非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた
近代的経済秩序の、あの強力な秩序界)の中に住むものは誰なのか…
(ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)
ウェーバーの云う鉄の檻。我等の住む鉄の檻の中で、自然性=愛情、好意、共感、素直さ、
全てが歪められてゆく…。ロリゲにおいて、自然性の体現なる子供=ロリっ娘までも…。
この作品、先に挙げた、ロリゲの最高傑作の一つ、「ふたごえっち」あたりと、
凄く対照的な作品になっているんですね。ふたごえっちの、アンチ・テーゼの
ような作品…。ふたごえっちの世界というのは、大自然の中で、自然に感情の
ままに自然と調和しながら豊かに生きる、ということを描いている、自然の中で、
自然とともに、自然に生きる楽園としての世界、ワーズワースが夢見たような世界。
ふたごえっちにおいて、都会から、二人のロリっ娘が住む大自然の田舎に
やってきた主人公は、そこで自然と調和しながら、自然と楽しみあい、そして
自らの感情を素直(自然)に活かして生きてゆく。二人のロリっ娘(みい、ゆう)
はそれこそ、大自然をそのまま体現した溌剌な妖精のような女の子達で、
例えば、川で裸で水遊びをして、主人公とお互いの身体に自然な素直な
セクシャリティを感じたりする、そういった自然性から、互いの抱く好意が
愛情に、素直に発展してゆくし、それを隠したりはしない。素直に感情のまま
に、好意を示し、愛情を示し、嫌なことがある時は嫌悪を示す。自然なる感情。
こういった、”自然なる感情”を示せるのは、もはや現社会では”鉄の檻”(社会秩序)
に支配されていない子供しかいないことから、子供は自然性の体現であり、子供との
交流によって失われていた自らの自然を回復するというのが、ふたごえっちに限らず、
ロリゲ、子供と慈しみ、愛し合うタイプのロリゲのスタンダート(自然への回帰)なのですが…。
そういった、子供の自然性すら、鉄の檻の中では、歪められ、苦しめられる
という、悲劇的な認識を「幼辱 〜天使たちの檻〜」は、真摯に、重く、描いている。
「幼辱 〜天使たちの檻〜」においては、ふたごえっちのように、二人のロリっ娘と、
主人公がいて、これまたふたごえっちのように、ロリっ娘と主人公は互いに好感を
抱いているのですが、好意を「幼辱」の主人公は歪んだ方向でしか発露できない。
それは、主人公(ロリっ娘の一人である祭里の実兄)は、父親が、彼等の実の母親
を捨てて、別の女性と結婚し、彼が実母の悲惨な最後を看取ったことから、実父と
と継母を恨んでいるのですね。彼はずっと一人で生き、相当苦労して、社会的には
ある程度の成功者になったのですが、心の底では、実父と継母に深い恨みを抱いている。
ただし、彼は実妹のことは深く愛していて、実父が借金を作って蒸発したことから、
借金取りから妹の身の安全を守り、そして借金を肩代わりする代りに、実妹を
引き取るんですが、その時、継母の娘である凛も一緒に引き取ることになり、
祭里、凛という二人の妹と生活することになる。そして、まず主人公は凛を憎もう
とするんですよ。凛は憎むべき継母の娘だから。…でも、凛って、物凄く良い娘
なんですね。それに、本当に憎むべきは父親や継母であって、凛ではない。
それは主人公は分かっているし、凛は本当に良い娘であり、好意を抱いてしまう、
彼女がとても良い娘だと分かっているのに、憎しみを理由に凛に手を出してしまう。
だけれど、憎しみから手を出した筈なのに、凛のことに好意を抱いてしまうし、それに
凛も、主人公のことを受け入れる、それは凛も主人公に好意を抱いていたから…。
そこで、関係性が歪んだものになる。互いに好意を抱いているのに、関係性が憎悪で
結ばれた主従的なものになってしまう。更にそこに、主人公に好意を抱く祭里が、
自分も凛と同じように扱って欲しい(手を出して欲しい)と要求してくるんですね。
祭里は本当に主人公のことを愛していて、主人公も同じで、そして凛も祭里と主人公
のことが大好きで、もし三人が素直になれば、凄く良い関係性を築けそうなのに、
それこそ、ふたごえっちみたいな自然楽園的な関係性になれそうなのに、それなのに、
三人とも、色々なもの、社会的な様々なものにがんじがらめにされていて、互いに素直
になれないで、互いの好意と愛情が、ただ、激しい、激烈な性行動という方向性にしか
形をとることができない。主人公はある程度の成功者(プチ・ブルジョア)なので、なんとか、
既存社会の中に自分達の関係性を折りこもうとするのですが、その努力が裏目に出てしまう。
主人公は仕事を休んで夏休みの長期休暇を取って二人と過しているのですが、休み中
に二人を強く支配して、主人公が仕事でいない時にも二人の心が自分から離れないように
しようとすることが、結局、二人の精神に悪影響を与えたり…、結局、二人が、人の目が
恐くてたまらない対人恐怖症になってしまったり、主人公の目の届かない場所(学校)で、他の
生徒に襲われてしまったり、非常に挫折的で破滅的な終わりを迎えて、物語は幕を閉じます…。
もし、三人が、三人とも、素直に、互いへの好意を示して、素直に関係性を作っていれば、
きっと、上手くいったであろうに…、そうできない。三人とも社会的立場とか、世間的規範が
内面化されてしまっていて、感情との相克で苦しんだ挙句、破滅的で挫折的な最後を迎える…。
凛と主人公の関係性は、最初のところでつまずいていますが、祭里と主人公の関係性は、
主人公が、祭里は実妹なので、手を出すことがどうしてもできなくて、まあ性行為はするん
ですけど、それは全部非本番(膣性交以外の性行為)であって、そこで、互いに苦しんで、
精神的なバランスを崩してゆくんですね。本作は、社会的なしがらみ(結婚制度・血縁関係・
金銭関係・社会的道徳等)がそれぞれ、主人公だけではなく、ロリっ娘も含めた登場人物皆
をそのしがらみを内面化することで縛りつけていて、それが彼等を悲劇的に挫折させる…。
先日プレイした「鎖-クサリ-」でも、この社会的なものと自然性(愛情などの想い)の対立を
幼辱と同じく兄妹相姦問題として、ちはやシナリオで重点的に描いていましたが、鎖の場合は、
社会と戦う、という方向に行ってしまって、相手(社会全体)を物理的な意味も含めて抹殺して
ゆくことで、自然性(愛情)を守るのですが、終局的には社会に滅ぼされる破滅を感じさせる展開…、
幼辱の主人公はプチ・ブルジョアなので、鎖の主人公兄妹みたいに自然なる戦士として生きる、
みたいなことはせずに、社会と折り合いをつけながら自分達の関係性を作ろうとするんですが、
その時点でどうしても自然な感情(互いが抱く素直な愛情)が歪められてしまい、結局はその
歪みの拡大によって、自然性(愛情)を存立させようとする試みは、悲劇的に挫折してゆく…。
なぜ、人間はこんな現社会を作ってしまったのだろう…。自然は、人工(社会秩序)の前に
屈服させられ、歪められ、破壊される。人間の自然性(感情)も、同じく、人工(社会秩序)
の前に、屈服させられ、歪められ、破壊される。それでも、その自然性を貫き通そうとすれば、
社会の敵とみなされて破滅する(鎖)、折り合いをつけようとすれば、自然が歪められて、
自分達自身が自分達の自然を歪めて自己破壊してゆく(幼辱)、我々が生きるには、ただ
人工(社会秩序)の前に頭をたれて自らの魂=自然を殺して、社会秩序の中の機械的な
歯車となるしかない…こんな、地獄のような現社会が、なぜ、人間の運命だったのだろう…。
現-社会…生-権力の社会。優生規範(優生産性道徳)による支配メカニズムの全社会…。
生-権力社会に絶望する…、人間は、ふたごえっちで描かれたような、自然なる世界に、
戻ることは出来ないのだろうか、例え生産量が少なくて生活は苦しくても、自然なる世界、
人間が自らの自然=感情を大切にする世界の方が、私はずっといい、自然に、生きたい…。
フーコーが示した可能性の一つは、人々が自己(自己の自然)を放棄しないこと、
自己の欲望を断念しないことにある。しかも自己の欲望を解釈して、自己の欲望
の<真理>を求めるという<オイディプスの罠>(自己言及の罠、精神医学etc)
にはまらずに、自己の欲望が実現されるような社会に向かって、
わずかながらでも自己と社会を変えていくことである。
フーコーは知識人や哲学者の役割は、そのための手助けをすることにあると考えていた。
あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。
人々は、自分で考えているよりはるかに自由なのだと教えること、
人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定
の時点で作り出されたものであり、このみかけの自明性は批判し、
破壊することができるものだということを示すものです。
人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です。
(中山元「フーコー入門」)
私は、人間の肉体を、世界の存在する自然を、信じている。自然の永遠を信じている。
永遠なる自然、自然の魂を、信じている。人間理性がいくら自然を破壊しようとも、
いつの日か、自然は回帰し、永遠に自然は回帰することを、深く、深く、信じている。
おお、人間よ!しかと聴け!
深い真夜中は何を語るか?
私は眠りに眠り――、
深い夢から、いま目がさめた、――
この世は深い、
『昼』が考えたよりもさらに深い。
この世の嘆きは深い――
しかしよろこびは――悲しみよりも深い。
嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。
しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ――、
深い、深い永遠を欲してやまぬ!
(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)
参考作品(amazon)
WestVision「幼辱 〜天使たちの檻〜」
フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 上巻」
フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 下巻」