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コラム「絶望と、快楽と、そして…」

「この世に生きるにゃ、三つはいらず。

ひとっかけらの絶望と、

片手に抱える女子がいれば」
(ギリシア詩文抄)

こちらのサイトさん(Not a Serious Woundさん)の特集を拝見したのですが…。

いやあ…いつの世も、戦いの種は尽きず……。
Not a Serious Woundさんはニュースサイト部分を閉鎖されるそうで、
管理者さんの決断は尊重されるべきですが、
毎回見ているサイトさんの一つだったので、私としては残念に感じます。

以下の文章はある種の人生論としての普遍的な文章として
書く事を目標とした論ですので、決して上記の戦いについて
書いたものではないことをまずはっきりとここで述べておきます。

私は人生、喧嘩っぱやく戦いにあけくれる連続史だったもので(爆)、
己の歴史を振り返り、実に己は愚かであったと今更ながら良く分かるんですが、
たいだい、人と人との戦い(自然と人との戦い)というのは、
己の幸福を求める期待から生まれるんですよね…。
それは己の状態を今より良くしよう、
己の不快を除去しようとする幸福への期待。

ですが、戦いは結局、戦う両者(もしくは人と自然)
を戦う前よりも不幸かつ陰惨な状況に陥らせてしまうことがほとんどで…。
結局は、期待は裏切られ、戦う前より不幸になってしまうことがほとんどの結果。

これは結局、自分に都合の良い希望の見通しに従った結果で、
非常に甘い「希望」と「幸福(な未来)」への期待がそれを招いてしまう……。

この世界(自然)というのは、全く思い通りにならないし、当然、それは他者も
その通り。自分が他者の思い通りにはならないように、決して他者も、
そして世界も、己すらも、自分の思い通りにはならない。

ショーペンハウエルは、人間は己が本当に己から求めるもの以外
の何か(道徳的な人とか)になることは、本当の意味で決してできないし、
それを無理やり外部的な力で強制的に行為などを変更する事は、
苦痛と不快であるばかりか、あらゆる何の徳も齎さないと述べました。
それは外部から強制される道徳(意志)の無意味さ。

「他人の性格は(外部の意志では)曲げられない。
このことをわれわれは経験を通じてはじめて知らされる。

経験でこの事実を悟るまで、われわれは愚かにも、
他者に理性的な考えを与えたり、頼んだりすがったり、
手本を見せたり義侠心に訴えたりして、相手にその人なりの
やり方を止めさせよう、行動の仕方を変えさせよう、
思考のあり方を違わせよう、さらに能力まで変えてしまおう、
などと無邪気にも思いあがるのだ。

ところが、これと同じことがわれわれ自身にも言えるのだ」

(ショーペンハウエル「意志と表象としての世界」)

ショーペンハウエルは、われわれは世界を決して制御できないことを説き、
すなわち外部世界(自然や他者や未来)と内部世界(己)の両方とも、
われわれは制御できず、すなわち「一切の生は苦悩である」ことを
知性が高まるほどより深く認識し、より深く苦悩し、苦痛が訪れると考えました。

まさにその通りであると私も思います。
世界を制御する意志、すなわち『己の未来への希望』が、
却って暴力となって荒れ狂い、そして人々を意志とは逆に破滅させてゆくのは、
大は戦争から、小は相互監視社会化の進行まで、
現代のあらゆる事象に見出されるでしょう。

ショーペンハウエルは、外部ではなく内部(己)の意志を滅却する
(絶望を悟る)ことによって、無(空)に至る事に救いがあると考えました。

「われわれは、癒し難い苦悩と果てしない悲惨が、意志の現象たる
この世界の本質を為すことを認識し、またわれわれは、意志の廃絶と
ともにこの世界はただ空虚なる無として流れるように消え去る事を知った。
ここまでくれば、この考察はわれわれの生に唯一の永続的慰めを
与えるものであることを示す唯一の書となるであろう。
(中略)
無こそがあらゆる最終的目標の背後に漂っているものである」

(ショーペンハウエル「意志と表象としての世界」)

ここでの無(空)は、死と言い換えてもいいでしょう。
意志の消滅、自我の滅却、忘我的超克。

私はショーペンハウエルには余り賛同できないところも多いのですが、
少なくとも、希望、期待、世界への楽観的欲望が、逆説的に
不幸を招く、人間はもっと絶望し、己は外のなにものも制御できない存在
であることを経験し、世界が本質的に示す苦悩と悲惨を認識すべきだ、
という彼の考え方には大いに共感し、賛成ですね。

希望の見通しと幸福な未来への意志が人間を逆説的苦悩へと追い込んで行く。
そしてその苦悩が暴力的な制御への意志となって世界を破壊し、
相互の争いを呼び、ますます苦悩を増大させ、初めの目的とは全く逆に機能してゆく……。

この[ 世界 - 己 ]とは、そんな救い難いものですよ。これは彼(ショーペンハウエル)
の云う通り、あるひとつの真実だと、私は自信を持って云える。

絶望の足りなさが、苦悩を招き、破壊を招く。

人間はもっともっと、世界、そして己に絶望した方がいい。

世界への絶望がなければ、世界へ期待という名の暴力を振るうことになり、
己への絶望がなければ、他者を正しき名目の元に貶めるようになる。

私は朝日新聞のような『道徳的輩として超越的に振舞う連中』を一番
信用しません。連中には絶望は一切なく、ゆえに己が振う暴力を認識できない。

私は外部的な道徳・規範を信用しない。
それはそれとして物理的にあるだけであり、そして多くは
ルサンチマンに利用され、権力に利用される(朝日のように!)

小林よしのり氏は、西尾幹二氏と訣別したときに、西尾氏が
「ブルータスよ、おまえもか!」を引用したのを見て、こう述べました。

「わしは西尾氏のように大仰に
『ブルータスよ、おまえもか!』などとは言わない。

裏切られたとは、全然思わない。

いつかこの日が来ると、分かっていたのだから。

『ブルータスよ、やっぱりね』

そう言うだけだ」

(小林よしのり「新・ゴーマニズム宣言第11巻」)

私は朝日のような感性は信じないが、小林氏のような感性を信じる。
それは世界(他者)との関係のなかにいずれ必ず示される絶望を受け入れる感性。

そして未来を信じず、幸福に絶望する私のような人間にあるのは、快楽です。

「幸福より、快楽を」
(渋澤龍彦「快楽主義の哲学」)

快楽、それは絶望、未来を信じない、『今という瞬間』にある無の極点。

極点において、全ては滅却、意志の消滅、自我の滅却、忘我的超克。

快楽の瞬間は外部意志を超えて行き、内部意志を超越する。

「エロティシズムは死に至るまでの生の高揚である」
(バタイユ「エロティシズム」)

幸福の永遠という幻影を期待することを否定した時に、
快楽の瞬間は生まれ、そしてそれは経験する永遠の誕生であるのです。

そして、これもまた逆説的ですが、外部道徳では無い、己だけのモラリティ、
すなわち『倫理』は未来を信じない快楽に在ると私は信じる。

大好きな人を抱きしめて、この子を愛していると感じる時、それは自我を超えている。
それは、意志を超える意志、すなわち「ほんとうに己から求めるもの」

快楽と倫理は裏表にある。それは「超える衝動」、求めるもの。
愛する人の歓喜を歓喜するとき、無限の合わせ鏡の中の喜びが、
果てしなく世界を超えて行き、それこそが、エロスであり生だ。

「エロ―ス(性愛)は、人の世には平和を、海原には穏やかな凪を、
風には臥所を、憂いには眠りを、創造する」

(プラトン「饗宴」)

何かを変えようと思ったら、何かに愛されるしかない。
そして、愛は、愛することで、始めて生まれる可能性を持つ。
勿論、愛しても愛が生まれない可能性もある、愛を諦める苦悩を受けいれることが、
絶望を知るということであり、そして絶望を知らなければ愛することはできない。
絶望と快楽のなかで愛することから始めなければ、何も変わらない。

シオラン

「絶望の極みで」

私は幸福であると同時に不幸であり、

高揚と衰弱を同時に我が身にかぶり、

もっとも意表をつく調和のただなかで、

絶望と快楽に圧倒されている。

私がかくも陽気、かくも悲しみに沈んでいればこそ、

私の涙には天空の輝きと同時に地獄の輝きが宿っているのだ。




絶望と、快楽と、そして愛を!

参考図書(amazon)
ショーペンハウエル著「意志と表象としての世界」

渋澤龍彦著「快楽主義の哲学」

シオラン著「絶望の極みで」

小林よしのり著「新・ゴーマニズム宣言第11巻 テロリアンナイト」

プラトン著「饗宴」

サッフォー他著、「ギリシア詩文抄」

バタイユ著「エロティシズム」

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