映画評「華氏911」
「大規模な生産を成功させるには、大規模な破壊を目的としなければならない」
(ルイス・マンフォード「技術と文明」)
「やつらはもたらす――帝国の影大の梗塞を」
(パウル・ツェラン「遺稿からの詩篇」)
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏911」を見てきました。
いやあ…なんとも…考え込まされる映画でした…。
本映画は、911以降のアメリカの状況を描いたドキュメンタリーですが、
映画の一面にはプロパガンダ的な、ある種の宣伝効果としての映画要素
があることは否定できません。然し、この映画はそれだけでは
済まないものを秘めている。それは、ドキュメンタリーが持つ力。
ただの反戦映画では、反戦という絶対的な大義を掲げることで、
反戦それ自体が極めて戦争イデオロギー的な
『反戦という名の隠蔽された暴力』となっていることが多いですし、
そういった嫌らしい匂いが私は大嫌いですので、
左向きな映画は基本的には好まないのですよ…。
反戦イデオロギーはそれ自体が暴力的な善意というの名の戦争そのもの
である『変異した戦争イデオロギー』であることがほとんどで…。
それは平野啓一郎氏が『ボランティアマニアの独白』という形で描いた
善意という名の元での闘争への狂気に通じる嫌らしい生臭さ。
「ああ、まさしく災害とは、(ボランティアマニアの)俺たちに、
瞬間的に、恩寵のように齎された『敵』だった!(中略)
危機は俺たちを引きずり出す!
災害は有無を言わさず俺たちに被害者であることを強いるのだ!
俺たちは『敵』と勇敢に戦う『敵』である!
悪なる『他者』に屈しない、善なる一塊の『他者』である!
それがつかの間であるなら、未来は俺たちの連帯に皹を入れるだろうか?
ああ、未来永劫に災害が続くなら、
俺たちは常に一つの何者かであり続けるだろう!」
(平野啓一郎「最後の変身」)
私もボランティアをたまにやっておりますけど、それは子どもが好きだから
やっているのであって、上記のような物凄く鼻持ちならないボランティアマニアは
ときどき現場で見掛けるので、こういうのはよく分かりますね…。
こういう崇高な(笑)善意狂信徒の奴らより、学校の命令で仕方なくとかいう奴らの方が、
ずっとまともで、本当の意味で優しさを持っていることが動いていると分かってくる。
こういう形態での単純な善意(例えばどんな戦争でも反対する)って、
結局、単純な悪意(例えばどんな戦争でも賛成する)と何も変わらない訳ですよ…。
単純に、ベクトルの向きが逆さまなだけで、結局は
どちらも非寛容で、悪と決めつけた相手(他者)との闘争しか考えていない。
そして、日本の左派と云われる連中やその作品
はほとんどがこのパターン(善意狂信型)ですね。
本当の意味でリベラルと云える人なんて、日本にはほとんどいない…。
ですが、今回見た華氏911は、
そのような単純な善意狂信型反戦イデオロギー作品とは違う。
華氏911はドキュメンタリーとして、非常に冷徹に描写される状況が、
凡百の反戦映画とは違う、戦争やシステムについて考察させる、
極めて深い問題提起を含んでいる。
それを象徴しているな…と思ったのは、息子が兵士をやっている
ことを誇り、私達のような家族がアメリカの屋台骨(システム)だ、
とそれこそ嬉しそうに語るお母さんが…息子が戦死した後、
怒り、泣き、己が無知であったことを嘆くシーンですね…。
本作ではこれが『戦争の悲惨さ』といった、非常にありきたりな、
反戦イデオローグの常套句にならずに済んでいて…。
このお母さんは怒りのあまりホワイトハウスに向うんですね…。
ホワイトハウスの前では狂信的な左派がホームレスのようなテント暮らし
をしながら、イラクの子どもをブッシュは殺している!と叫んでいるのですが、
それは、本当の不気味な狂気なんですよ…。明らかに左狂い…。
先にあげたように、善意・平和というイデオロギーに染まった人間の異常な狂気。
で、お母さんがこの狂人左派の言葉に耳を傾けていると、今度は
右派がそいつは政治的な嘘を述べている、とか口を出してくるんですよ。
そうすると、お母さんが怒って、
私の息子は(左狂人の戯言ではなく)本当に殺された!
と述べて、左派と右派を無視してホワイトハウスに向って
怒りの視線を投げかけるんですが、そうすると今度は
右派が、『悪いのはアルカイダ!』と後ろから叫ぶんですが、
左派の言葉も右派の言葉も、お母さんの怒りの視線に比べると、
全く空虚な、何の意味もない虚言であるということが示されて…。
しかもこれ、5分もない1シーンなんですよ。
こういった様々なジャーナリスティックなシーンの
プリコラージュとして映画が構成されていて…。
私は凄いなと思いましたね。
普通の映画を何十本もみたかのような想いを
感じさせる鋭い断片が観ている人間に突き刺さってくる…。
映画評論家の町山智浩さんが指摘するように、
ムーアが単純な平和論者、反戦論者ではないことは明らかです。
彼は祖国防衛の為に命の代貨を払う軍人たちに
敬意を持つべきだと映画内で説いております。
そして、本来なら敬意を払われるべき軍人たちが
一部政治家の利権の為に『必要性のない戦争』に
赴かせられることに怒っている。
必要性のない戦争が起こされている…、
ならばそれはなぜ起こされたのかを探る、
そして戦争とはどういうものか、を戦争当事者
(政治家、経済人、軍人、街の市井の人々)の観点、
すなわち実践理性の観点から描いており、
左巻きどもの空疎な平和狂信教(理論理性の観点)とは
極めて対極にある、本当の意味での報道の姿勢が見られる。
然し、必要性とは何か。
おそらくムーアは祖国防衛戦争(侵略に対する反攻)か、
もしくは本当の重大な脅威(イラクは全く脅威ではなかった!!)
に対する戦争のみが『正しい戦争』で、それ以外の戦争、
すなわち『侵略戦争』は悪だと考えているのだと感じられます。
イラク戦争は覇権的侵略戦争として描かれ、その読みは
正しいと私も考える。
だが、私はおそらく『正しい戦争』のみを認定する手法では、
戦争は決して防げないと思います。
というか、戦争を防ぐことは人類種において現在のところ、
根本的に不可能な状態であり、
戦争について考察してゆくとともに、戦争の為の
社会システムの駆動を防ぐことの不可能性を知りながら、なおかつ
それでも防ごうと当事者たちが行為するしか、
戦争の惨禍を減らす方法はないでしょう。
そして、ムーアのジャーナリスティックな誠実さが、
はからずも、ムーアの限界とも云える、『戦争』を
本映画で描きだしてしまっていることが、極めて興味深い。
それは、映画の最後にオーウェルを引用しながら述べられる
『(社会)システムの継続の為に戦争は行われ続ける』という
言葉の意味。それまでのシーンすべてがこのことの意味を考えさせる。
…確かに、ブッシュ大統領や他政権幹部達の利権もまた
戦争の目的に絡んでいるんですが、もっと重要なことは、
『戦争が起きないと人間社会(国家・経済)システムを維持できないから、
社会の崩壊を防ぐ為に戦争は起こり続けるしかない』
という、アメリカだけの特殊ではない、世界的な事象を
考える必要がある…、アメリカの特殊性ではなく、
普遍の切り出しの1ケースとして、アメリカが在る…。
なぜ、戦争が起きないと、社会を維持できないのか。
私はここで大きく分けて、二つの意志があると考える。
一つは人間の本能、人間の人間たる意志として、
『より優れたものを求める』という意識を超えた意志がある。
もう一つは『理解への欲望』、衝動的な何かを理解しようとする意志、
すなわち、理解=支配する意識を超えた衝動の意味化の意志。
これらは人間を人間ならしめているものであり、
富を求める意志も、平和を求める意志も、芸術を求める意志も、
すべての生産的な意志はこれらの意志から生まれ、
また戦争、略奪、破壊といった、すべての反生産的意志も、
ここから生まれる。
それこそ、遥かな古代の紀元前から現代に至るまで、幾多に渡って、
人間同士の平等な社会を試みるプロジェクトがありました。
平等施政を目指した最古のポリスの一つスパルタの王クレオメネス3世、
アギス4世……、古代の君主も…現代のコスモポリタン願望も…。
然し、それらは悉く失敗した。人間は常に、ピラミッド型の
階級社会構造を産み出し、自らと他者に優劣をつけることを望む。
それは、『より優れたものを求める』意志。
優れたもの、優越を目指す向上心が人間にある限り、
『平等』という優れたものを破壊する概念は反・人間的なものになる。
ではなぜ『平等』という概念が生まれたのか。
それは敗者達のルサンチマン(怨念)が生み出したのです。
敗者達は勝者を妬み憎み、勝者を引きずり落す為に、
『平等』という概念を発明した。この概念の発明と普及こそ、
ニーチェの云う通り、ユダヤ民族の天才でしょう…。
然し、共同体が平等である時、『より優れたものを求める』意志は満足されない。
そこでどうなるか。優れの意志を満足できない平等共同体はどうするか…
『平等な共同体は自分たち以外の共同体に優位する』ことを望む。
共同体が望む平等と平和への意志が、『共同体ではない』と規定した
第3項(生贄)への暴力として発動し、供儀が生まれ、戦争が生まれる。
平等と平和への意志が、差別と戦争を生むのです。
平等への意志は差別と表裏一体、平和への意志は戦争と表裏一体。
「戦争によって社会共同体はその最高かつ至上の栄誉を感じる。(中略)
国家の資源とエネルギーは既に平和時代から多く保留され続ける。
(エネルギーの保留が進むに連れて)社会の決定は戦争を煽り続ける。
社会は戦争を要求する。戦争の重要性は増大し続ける。(中略)
こうして戦争は、国家にとってひとつの熱狂となり、ひとつの絶対になってゆく。
平和が戦争を犠牲にすることはありえない。なぜなら平和が戦争を準備するからだ。
平和はこうした宿命を抜け出ることはできない」
(ロジェ・カイヨワ「聖なるものの社会学」)
そして、戦争が起きる。
本能的、原初的な『向上心の歓喜(生命力の上昇衝動)』によって。
華氏911では、音楽CDを戦車の無線機で鳴らしながら、音楽にノリながら
殺戮すると最高に気分がハッピー!と語る『戦争=祭りを愉しむ』兵士たちが
登場します。こういったエネルギー、すなわち人間の衝動的活力を
どこかに放出しなければ、社会は内乱的状況(アノミー)に陥り崩壊する。
戦争(祭り)は、人間の生命的活力を放出させる、社会の欲望に応えている…。
そして次に『理解への欲望』、これはようするに、
物事が思い通りにならない人間の根源的な生の宿命を、
『誰か(何か)に宿命の責任を押しつけることで生の宿命を偽る』ということ。
この呪術的思考によって、人間は世界に絶望せずに生きていくことができる。
そして、人間はこの呪術的思考から決して自由になることはできない。
なぜなら、人間は常に己に都合の良い欲望に突き動かされるゆえ…。
「人類は常に、自然に由来し、遠くにあって理解しがたい原因よりは、
『社会的に意味があり、人間の干渉により制御できる』原因、
すなわち『犠牲者』の方を好み続けてきた。(中略)
人間が科学を創設したから魔女狩りをやめたのではなく、
魔女狩りをやめたから科学を創設したのである。
科学精神は(呪術-迫害的思考の)副産物である。
近代社会においてはこの副産物から武器や
数々の権力装置が創りだされた(中略)
近代人は自分を解放者だと信じていたが、実は迫害者であるのだ。
息子たちは父親を呪い、自ら裁く者となることを欲する。
現代の研究者によれば、いかなる形態の合理主義と科学にも、
呪術が残存しているのが見うけられる。
我々の父祖達は自分では呪術から脱出しえたと信じていただろうが、
実は暴力と聖なるものの円環(サークル)から脱出した訳ではない。
近代は神話と儀礼を作りなおして、変異体を産んだのだ」
(ルネ・ジラール「身代りの山羊」)
人間は、呪術的思考(非理性的衝動からの思考)を決して捨てることはできません。
もしこれを捨てれば、愛することも笑うこともエクスタシーを感じることも、
感情が何もかも無くなってしまうでしょう。人間が人間である為に必要なのです。
そして、呪術的思考は求める。
人間の根源的な苦しみ、生の苦しみを購う為の方法を…、
呪術的思考は考える。苦しみの原因を。
そして『苦しみの原因を無から創り出す』…すなわち生贄を。
しかし、この呪術的思考に突き動かされて隣人が隣人を殺戮していたら、
社会は万人の万人に対する闘争となり、完全に崩壊します。
そこでどうするか。社会は社会を維持する為の生贄を用意します。
それは社会というカテゴリから外れたヌーメン、聖なるもの=呪われしもの。
聖なる王であり、汚れた非人間であるものを破壊して、
社会的人間たちは呪術的思考を満足させる。
人間は、他者を破壊することで群が纏まる生命なのです…。
「人間同士は欲望対象への保護については決して意見が一致しないが、
その破壊については常に一致する。協調は犠牲者をとおしてでしか成立しない。
『そこで王はすぐに兵をやり、ヨハネの首を持ってくるように命じた。
護衛兵は行き、牢のなかでヨハネの首を刎ね、
その首を盆に載せて持ってきて、少女(サロメ)に渡した。
少女は、それを母親に渡した』
人間にとって、自分たちの欲望を邪魔だてするものは生きた躓きの石であり、
自分たちが幸福になるのを妨げる唯一のものだ、とひそかに考える。
現代に生きるわれわれもまた、これと別のことを考えている訳ではない。
預言者はあらゆる関係を混乱させるけれども、ひとたび死ねば、
動かぬ従順な物体となり、サロメの盆に載せられて
順に回されて、諸関係を円滑にする。
招待客はヘロデの宴会ででた食事や酒と同じように、
ヨハネの首を互いにすすめあう。
それは人々がしてはならないことをするのを
妨げる驚くべき見世物であると同時に、
するにふさわしいことをするようにしむけるもの、
すなわち犠牲者の殺害によって
あらゆる交流を可能にするきっかけなのだ」
(ルネ・ジラ―ル「身代りの山羊」)
なぜ、保護(愛すること)ではなく破壊(憎悪すること)が人間を纏めるのか。
それは、殺す=死ぬと相手は動かぬ物体になって、殺されたものは、
殺したものの完全な制御・支配・理解の元に置かれるからです。
ゆえに生きる人は殺す物を欲する…現代の人間はこの呪術的思考から
逃れることはできず、自由や平等などの様々な『後付け理屈』を
名目的に創り出して殺戮を行いますが、その影には常に
非理性的な衝動、呪術的な思考が渦巻いている…。
そして、社会も当然ながらこの聖であり汚である呪いから逃れる
ことはできない…。現代社会(熱い社会)は戦争を前提に成立する。
華氏911で、いかに戦争こそが経済であるかが多く描かれることか。
それはムーアの偏向ではなく、実際に、戦争こそが経済であることを示している。
未開社会(冷たい社会)は祝祭と供儀を通して生産物を破壊することで、
呪術的思考を満足させ、社会の崩壊を防いでいたが、現代社会(熱い社会)
は祝祭と供儀の代わりに、戦争によって生産物を破壊して社会の崩壊を防ぐ。
「資本主義社会の機構のうちで解放されるエネルギーの増大する余剰、
(増大してゆく生産の力、浪費に対する憎悪)は、ますます激しい戦争を
持ってでしか消費することはできない」
(ジョルジュ・バタイユ「呪われた部分 有用性の限界」)
「軍隊は完全な消費者団体だ。最大に反生産的な団体だ。
宿舎をあてがい、飯を食わせ、おまけに着物の世話をする。
破壊する仕事のほかは、何の反対給付もない。
どんな夢のような贅沢三昧も、消費の量では、とても戦争には叶わない」
(ルイス・マンフォード「技術と文明」)
「軍需は生産能力を膨大に増加させる。そして平和になれば、
おびただしい破壊者たちが再び生産へと帰ってくる。
そして破壊の代わりに生産が行われる。そして今度は
生産過剰による不可避的危機と失業の脅威が訪れる。
しかもこの脅威は技術進歩によって、加速しながら増大してゆく。
こうして戦争への準備がこれらの困難の打破の為、再び行われる。
そしてそれは産業予備軍を吸収して、不要資材あるいは、
破壊にだけ有用な資材を貯蓄させる。(中略)
戦争は社会生活の当然の結果として現れる」
(ロジェ・カイヨワ「聖なるものの社会学」)
人間というのは古代から、ずっと…自分で砂のお城を作っては
それを自分で破壊し、また作りなおす子どものようなことを
ずっとやっているのですね…。
「ユダヤの建築においては、滅びたエルサレムを思い起こす為に、
何かしらがいつも未完のままに残されなければならない…」
(ジャン・パウル「カンパニア渓谷」)
…なぜ人間はこのような、破壊(祝祭・供儀・革命・戦争)
しては作りなおす(生産・教育・法制度・平和)ということを
延々と繰り返しているのか…。
このことについてはあらゆる人々が考察してきましたが、
私の知る限り、はっきりした答えはないですね。
答えを求めること自体が、『理解への欲望』に吸収され、
問い自体が、問いのなかで変質させられてしまうという、
世界内存在の限界性が、こういった、なぜ人間は
そうなのか、という問いには顕れてくるのですね…。
もう…『そういうものだ』(スローターハウス5)としか云えない…。
「戦争の形態は文明の発展そのもののうちに含まれている。
そして文明は戦争を華々しく進歩させてきたが、結局は
自己破壊の脅威となってきた。
この危険には早急に手を打たなくてはならない。
事態は、もうこの段階まで迫っているのである」
(ロジェ・カイヨワ「聖なるものの社会学」)
このまま進むと極めて事態は陰惨かつ不幸なものである
ことは誰もが分かっているのに止められない、生産―破壊の
円環における迫害的闘争……。戦争に反対すること自体が、
理論理性のレベルではそれ自体戦争化するということ、
それを踏まえた上で、赦しということを考えてゆくしかない、
絶望的な状況を常に実践理性として認識し続ける誠実さ、
それを各人が持ち続けるしかない…。
…そして、華氏911はその実践理性としての誠実さを
描いたドキュメンタリーであると感じます。
「戦争はその…思ってたより、ずっとグロだ」
(華氏911。米軍兵士のコメント)
皆様にもこの映画を見て、己の身に感じて欲しいと願います…。
ルネ・ジラ―ル
「身代りの山羊」
殺人者たちは、自分たちの行う犠牲の殺害が賞賛に値すると考える。
彼らもまた、自分たちが何をやっているのか、分かっていないのだ。
だが、彼らを赦してやらなければならない。
互いに赦しあうべき時がきたのである。
これ以上待っていれば、
もはやわれわれに時間は残されぬことになるであろう。
参考サイト&参考図書(amazon)
華氏911公式サイト
町山智浩アメリカ日記
ルネ・ジラール著「暴力と聖なるもの」
ロジェ・カイヨワ著「聖なるものの社会学」
平野啓一郎著「滴り落ちる時計たちの波紋」(「最後の変身」収録)