民主主義の利点 -プロセスの開示と明示について‐
この前書いた文章に白田秀彰さんから、
レスポンス(インターネットの法と慣習 第14回)がきている…。
風刺的要素の強い私の文章に真摯なレスポンスが頂けた事を、
まずは感謝します。
また、今回の文章では前回と大分ニュアンスが違っているように感じまして…。
「対話のインターフェイスとしての理性を誰が設定し保持していくの?
国家? 企業?
アカデミズム?少数の人間にこの作業を任せてしまうのは、
その作業内容と結果を多数が監視できなくなるから危険だ。
理性は設定可能であるから、少数者が設定してしまうとバイアスがかかる。
私には、その仕事は、第13回でも呼びかけたように、
「哲学や文学...人文系の学者の皆さん、エンターテイメント業界を含む
マスコミに影響力のある皆さん」にワヤワヤ言いながら
やってもらうしかないと考えているわけ。
これならある立場に重心が移っても、均衡を取り戻そうとする作用が
起きることが期待できる。というか、そうした人たちは、
主張の偏りを敏感に察知し、反対の主張を支持することで
均衡を維持することを仕事にしてきたと私は考える。
あるいは、新しい議論の空間として、たくさんのブログの
ネットワークがそうした役割を担うようになるかもしれない」
と今回、白田さんは書かれております、この啓蒙手法に私は賛同します。
私は絶対的な理性を規定して、その真髄を知るもの(エリート)が
密室政治を行い、黙示的にシステムが規定されてゆくというニュアンスを
前回の文章から読み取り、それを批判したので、明示的・開示的な
プロセスにおいて、相互間のコミュニケートを促進するような啓蒙運動に
対しては、逆に大賛成です。
今回書かれている、
「少数の人間にこの作業を任せてしまうのは、
その作業内容と結果を多数が監視できなくなるから危険だ。
理性は設定可能であるから、少数者が設定してしまうとバイアスがかかる」
というのは、まさに民主主義的なプロセス(プロセスの開示・明示)であって、
前回白田さんが書かれた黙示的なシステムの設計思想である(以下、前回より引用)
「マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、
政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、
民主主義的には行い難いか、行えない。
「こっちの方がよさそう」とか「なんでもいいよ、楽しければ」
というような感じで選択された基盤が、はたして長期的にみて
破綻しない社会を実現してくれるかはなはだ怪しい。
これは一大事なんだ。だから、どこかにエリートがいて、
どのような文化的・政治的環境を「自然」なものとして設定するかに
ついて慎重に準備することが避けられないんじゃないだろうか」
上記の文章とは矛盾しているように思いますが…。
それはさておき、今回書かれているような明示的なプロセスによる
相互コミュニケートの促進といったことについては、私は心から賛意します。
でも、今回の文章は明かに『マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、
政治的に機能する文化的・政治的社会基盤』を創ろうとする試みですが…(笑)
まあ、人間の考え方は変化してゆくものですし、今回の文章には賛成できます。
法律学者の白田さんにはまさに釈迦に説法ですが、民主主義における
法律の重要性というのは、法律が明示・開示的なもの、
常に万人に開かれた規範体系として存在することであって、
それはエリート(統治者=少数者)による黙示的支配(宗教的支配・プロレタリア独裁等)
とはまったく違う、常に法による統治プロセスが全面的開示された規範に則して
明示的に動作するものでなければなりません。
また、法律は常に被統治者の意志によって変化可能性を持つものである必要、
そして法律外部からの近代的超越規範(人権)を受け入れるものである必要があると、
私は考えております。
そこで、ここが白田さんとは今回とも考え方が違うところですが、
『最高の理性と知性』なるものに、今回も白田さんは信を置いている
ように見受けられますが、私はそのようなものは存在しないと考えております。
なぜならば、理性や知性と『倫理』は全く違うものだからです。
人間の倫理は、理性や知性の持つ合理性を越えたところに存在しています。
理性や知性がいかに倫理的に当てにならないものであるかは、
ナチスやソビエトのような最悪最大の例を持ち出さずとも、
現代社会において少しでも世を見る眼があれば、いつでも了解できる事柄です。
例えば最近の一例を挙げれば、白田さんが信頼するであろう
『社会的に最高の知性と理性を持つとされるエリート』、
白田さんのお仲間である法律家であり、
神戸地検検事、大臣官房長、法務事務次官、東京高検検事長、
公正取引委員会委員長と白田さんを社会的には遥かに超える
錚々たる肩書きの持ち主にして、更には史上最悪のプロ野球コミッショナー、
根来泰周氏が理性の正体を身を持って証明したではありませんか(笑)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040926-00000062-mai-spo
根来泰周氏はストを実施した古田選手会長を中心とする
プロ野球選手達はルールに従わぬ非理性的で感情的な連中だと
罵りましたが、私はこれはまさに理性の独善的で高圧支配的な
有り様をものの見事に示した、見事な戯画であったと感心致しました。
根来氏は己の身を犠牲として、高名な法律家の人々のなかにも、
どうしようもない判断を行う人物は居り、そしてそんな人物も強大な
権力を握っているのだ、というこの世の不条理を、
完璧な形で示してくれた偉大な御方であると云えるでしょう(笑)
白田さんは職業学者なので、根来氏は法律家ではあるが学者ではない、
ゆえに学者にはその例は当て嵌まらないと述べるかも知れませんね。
では学者で例を挙げましょうか。
薬害エイズ事件の首謀者、安部英帝京大学学長などどうですか。
高名な職業学者、大学の学長すら、無辜の大勢の人々を金の為に殺人する、
この倫理の恐るべき欠如とそれが齎す災禍、これは学者という存在、
すなわち理性と知性を平均より多く所有すると見られる人々たちにおいても、
他者への倫理は必ずしも持っている訳ではないこと、
それを完全な形で証明しているではありませんか。
これら、現代の有り様を見、まだ
『社会的に最高の知性と理性を持つとされるエリート(=学者)』
が倫理的に信頼できる(システム製作を任せられる)と
仰られる学者さんは、それは明かに、象牙の塔に篭り過ぎで
感覚がおかしくなっていると云えるのではないでしょうか。
倫理的に信頼できない理性と知性の優れた人々
が作ったシステムは恐るべき非人道的超合理システムとして機能するでしょう。
代表例としては『優生学』など、その最たるものです。
ジョージ・オーウェルの『1984年』など、ぜひ一読をお勧めします。
この物語に出てくる『党』など、まさに理性と知性の権化としか云い様がありません。
はっきりと申します。
理性は合理的な解や相互理解の為のインターフェイスではありません。
理性を使った合理的な解や相互理解など不可能です。
愛ではない対話(理性対話)においては、意見が相違した場合、
可能なのは最善のときでも、ある程度の宥和的妥協に留まります。
なぜならば、人間の知覚に限界がある以上、純粋な理性は有り得ず、
そしてまた人間は己の関係性に囚われている以上、己を離れた
価値判断を下すことが不可能だからです。己(主観)を離れた価値判断(客観)
が可能だと考えるのは、自己正当化の為の欺瞞に過ぎません。
人間は常に己の囚われている因果性・関係性から判断を下し、
また、己以外の関係性を知覚の限界によりごく僅かにしか捉えられない為、
しばしばその判断は誤り、過誤を齎します。この過誤は己一人ではどうしても防げません。
理性とは、常々、ほとんどの場合、自己正当化に使われる道具でしか有り得ません。
なぜなら、人間は理性を常に主観的な不完全な形でしか持ち得ない以上、
常に、他者の理性と己の理性は違ったものとなり、統一は不可能であるゆえです。
ならばどうするのか。どのように人間同士の権力関係を妥当させてゆくか。
ベターな解決策は私の知りうる限りでは一つしかありません。
それは権力の関係性における支配的プロセスを黙示的支配
(エリートによる宗教的支配)に委ねるのではなく、
常に明示的・開示的な、法的規範として検証可能なものとして、
規範に対する違反のチェックが常に可能であり、なお、その規範自体も
状況によって民意により変更可能なものとする、
という民主主義のごく当たり前のプロセスをきっちりと守ることです。
もちろん、民主主義において、衆愚政治の可能性は常にあります。
しかし、テクノクラート独裁のようなシステムよりも、
まだしも衆愚政治の方がマシなシステムであると私は考えます。
なぜならば、絶対的権力は、絶対に腐敗するからです。
そして、民主主義の法の下の平等は、我々が例え衆愚政治に
陥っても、それが我々自身の逃れられぬ責任であることを
自覚させるがゆえに、我々自身を常に変化させ、ゆえに
政治もまた変化し、それによって競合する外部システム(他国家)
との国家的生存競争において、有利に働くでしょう。勿論、これは
競争に勝てることを保証する仕組みではありません。
ですが、私はベストではないにしても、もっともベターだと考えております。
ゆえに、システム基盤もまた、民主主義的なプロセスで決定するべきです。
『どこかにエリートがいて、どのような文化的・政治的環境を
「自然」なものとして設定するかについて慎重に準備すること』
は避けなければなりません。
上記のようなエリートによる独断的システム決定は
国民一人一人の無責任を助長し、
それこそ、倫理を完全に崩壊させてゆくものです。
勿論、どのような基盤が相応しいかについては、
様々な考えがあっても良いと思いますし、白田さんが
理性尊重主義を掲げて、それを広げることを目指すならば、
その行為が民主的な開示プロセスとして行われている以上、
私はそれを尊重しますし、私に賛同できるところは
賛同してゆくつもりです。
但し、私の考えでは教育で理性尊重を掲げても、
そんな簡単に上手くいくものではないと思います。
なぜならば、子供は常に、周囲の全体の環境を学習してゆくからです。
端的に云えば、飢えている子供に、金持ちの大学教授が
人間は平等の理念を持っているなどと口先で説いても、
そんな説教にはまったく何の意味もないばかりか、
寧ろ子供にダブル・バインド状況を強いていて有害だと云うことです。
これは全ての教育に云えることです。
白田さんは西垣通さんに師事してオートポイエーシスについて学ばれておられる
ということなので、ルーマンの理論についてはお詳しいのかと
思いますが、ルーマンはシステム理論で独立した教育の不可能さを説いています。
「教育は、通常教育的コミュニケーションによる人間の変容と理解されている
(中略)教育概念がコミュニケーションの心への影響を示すという点、
社会化とは異なって、意図的に引き起こされた改善、
意図した心的システムの変化を示す点では一致している。
別言すれば、教育概念は社会システム(コミュニケーション)と
心的システム(意識)の因果関連を、計画的で、制御可能であるが
しかし常に成功するとは限らない形で、指し示している」
(ルーマン「Das Kind als Medium der Erziehung」)
子供にとって教育は常に教育システムとして独立してあるのではなく、
その子供のいる環境における学習要素の一つとして認識されます。
人が自分の子供時代を思い返せば、ルーマンが述べるは当たり前のことです。
学校の教師や教育全般は生活の一要素に過ぎません。
オートポイエーシスによる社会システム理論によれば、
社会全体は、個々の要素では制御不可能なシステムとして
個々の人間の意志を越えて駆動します。
そして理性を生み出す人間の生活基盤は、この制御不可能性に
よって形創られること、それを認識した上で、なお啓蒙活動を
されるのでしたら、それはそれで、たいへん貴い営みだと思います。
但し、例えば例に挙げておられるエンターテインメント業界は
この社会の駆動に意識的・無意識的に合わせながら
創造を行っていく業界なので、エンターテインメント業界に
理性・知性・倫理を求めるのは、順番が逆です。
社会全体の制御不可能性から生まれるその時点での社会が
駆動させる理性・知性・倫理をエンターテインメントは反映するのです。
その時点での社会の理性・知性・倫理とかけ離れた
理性・知性・倫理をエンターテインメントで提示することは、
ある種の前衛であり、それが成功するかは難しいですね…。
勿論、意欲的なエンターテイナーと組んで新しい創造(啓蒙)を
やるのならば、それはそれで良い試みだと私は思います。
共同体主義においては、既に小林よしのり氏が手を付けておりますが…。
あとは逆に、文系の研究者などはある程度既に立場が前衛的な
場所にいるので、社会と離れた理性・知性・倫理などを掲げてもそれは
まったく普通の振る舞いでしょう。
色々と書いてしまいましたが、人間としての理念(倫理)を
人々に啓蒙するという事に関しては私は白田さんと同じ立場に立ち、
近代的理念、人権や民主主義、法治主義などの概念を護ってゆきたいと
考えております。その点においては全面的に賛成致します。
社会的地位が知的権威型上層階級(=影響権力を持つ)である
白田さんのような方が、近代的な人間性理念の
護り手として活動なされることは、倫理を人間にとって大切なものと考える
私にとっても喜ばしいことと感じております。
意見の違うところもありますが、前回と違い、
今回の白田さんのご意見には総体的には賛同しております。
頑張って下さい。
参考図書(amazon)
グンター・トイプナー著「オートポイエーシス・システムとしての法」
ジョージ・オーウェル著「1984年」