
こちらに白田さんから頂きましたレスポンスの返答を掲載させて頂きました
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アドルフ・シラターの誕生 −我が法律−
Research Papers of Hideaki Shirata
「権力とは人間の精神をずたずたに引き裂いた後に再構築する力だ。
我々がどのような世界を創造しつつあるか、君にも分かってきただろう。
それは昔の改革者たちが夢想した愚かしい快楽主義的ユートピアとは
全く正反対のものだ。恐怖と裏切りと責め苦の世界、
人を踏みつけ人に踏みつけられる世界、純化されるに従い、
より残酷となってゆく世界なのだ。世界の進歩とは、より大きな苦痛の増大だ。
我々の文明は憎悪に基礎をおく。我々の世界では恐怖、憤怒、勝利、謙嬢
を除いたら何の感情も存在しないであろう。
それ以外のものは破壊される――何もかも、何もかも、だ」
(ジョージ・オーウェル「1984年」)
法政大学の白田秀彰助教授(以後、教授と略称)
はネットでもっとも積極的に情報発信を行っている
学者さんの一人で、これまでは、ローレンス・レッシグなどに準拠しながら、
自由・多様性重視の姿勢を取っておられた方ですが…。
今回、『インターネットの法と慣習第13回』において、
大・転・向!!
を遂げられた模様…。
『(民主主義は)達成できない理想を前提として
現実の政治制度を作った段階で、
最悪の衆愚政治への転落の危険を常にはらんでいることになる。
(中略)
マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、
政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、
民主主義的には行い難いか、行えない。
「こっちの方がよさそう」とか「なんでもいいよ、楽しければ」
というような感じで選択された基盤が、
はたして長期的にみて破綻しない社会を
実現してくれるかはなはだ怪しい。
これは一大事なんだ。
だから、どこかにエリートがいて、
どのような文化的・政治的環境を「自然」なものと
して設定するかについて慎重に準備することが
避けられないんじゃないだろうか。
(中略)
民主的プロセスが動作する基盤は、
最高の理性と知性をもって設計し、
設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか
それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、
強く影響するという危険があるわけだけど、
なんとも仕方がないんじゃないかと思う。』
(白田秀彰『インターネットの法と慣習 第13回』)
ああ…きた…きた…
ロベスピエールだッ!!!!
1984年だ!!すばらしい新世界だ!!
教授はついに…ああ…ついに…
『彼はやっと自分に対して勝利をおさめたのだった。
彼は”偉大な兄弟”を愛していた』
(ジョージ・オーウェル『1984年』)
になってしまったのですね…。
ときどき、或る種の教授人は”ビック・ブラザー”
を愛しはじめてしまうのですね…。
まさに、
『教授のファッショな愛情――いかにして私は心配するのを止め、
ビッグ・ブラザーを愛するようになったか』
……………。
…えっと…確かに日本では吉本隆明とかも転向してますしね…。
教授も…『よし、ここで周囲からおとなしめ(リベラル)に
見られている俺もいっちょ転向して大物ぶりを見せつけるか。
これからサバティカル(長期休暇、約一年)で外遊だしな、
今から新たな俺のイメージの為に、
現在のイメージを壊しておく必要もあるだろう。
ふふ、俺は、今から変身する。超・シラタへ!!』
などとお考えになったのかも知れませんが…。
然し、その変身が…いままでのリベラル系から…
――絶対理性を信奉する超ファシストへ――
…こ、これは、余りに極端過ぎませんか!?
というか…『最高の理性と知性が社会を支配すべき』
…これって…ぎゃ、ギャグ言説ですよね…。
…え…そ、そんな…ま、ま、まじで言っているんですか、教授…。
…あの…この教授って、ポストモダン哲学者の東浩紀先生が
主催しているWEB言論誌『波状言論』の寄稿者なんですが…。
…その…寄稿者な訳ですし、東浩紀先生の
『存在論的、郵便的』とか『郵便的不安たち』とか、
当然この教授は読んでいる訳ですよね…。
それで…読んだ上で、東先生の著作を踏まえた上で、
『最高の理性と知性が社会を設定し設計し維持しなければならない』
と教授は仰っている訳ですよね…。
……えっと…どうすればいいんだ…えっと…えっと…。
助けて、東先生!!
天の声
「笑えば、いいと思うよ」
…そうか…「笑えば、いいと思うよ」という
脱構築のススメなんですね…。
で、でも…あまりにも…あまりにもドラスティックに教授がマジっぽくて、
なんかマジで『万物に対する客観絶対理性』を信仰して、ロジ―ナお茶会とかで
『客観真理信仰の儀式』とかやってそうで、…わ、笑えないよ…。
笑えなくて、脱構築できないので、しかたない、マジメにいきましょう。
…まず、なんでこんな現代のコモンセンスそのものであることを
法政大学の教授ともあろう方の文章に言わなければならないのか、
自分でも訳が分からない事態ですが、
まあ、一応超簡単に説明しますと、
この教授が言っている
『絶対理性(=少数の超エリート)が社会を支配すべき』
というのは、近代の強大な、そしてなおかつ大失敗に
終ったイデオロギーの考え方で、
それは何かといいますと、『ファシズム』&『コミュニズム』です。
当然、偉大なる教授は我が闘争をお読みになっていると思いますが、
教授とまったく同じことをアドルフ・ヒトラーが述べていますね。
という訳で、比較引用してみましょう。
『(現代で倫理が失われたのは)
市民社会 civil society と国民国家 nation state が
混同・同一視された上で、国民国家が暴走し世界大戦
という悲劇を生んだ反省から、教育の中から人々の思想
や思考のパターンを「ある方向」にそろえるような内容が排除されているから。
あるいは、市民社会を富裕市民階層の構築物であると
考える人たちが、意図的に旧来の市民的教養を
破壊しようと狙ったからというのもあるだろう。
市民社会のイデオロギーがもともと富裕市民階層の
それであるというのは事実なんだけど、
そのために教育の虚無をもたらすことは社会自体の破壊につながる...
私の目には、もうその破壊が顕著に見えるんですけど、
思い過ごしでしょうか。
常識や世界観の分裂、他人の気持ちがわからない人々、
公共性の欠如、利己主義と義務の感覚の欠如...
これに後述する資本主義のダイナミズムが結びつくと状況はさらに悪化する。
(中略)
(現代の人間がズレているのなら、人間を作り変え、既存の)
経済学や法律学に沿うような人間を
作ってしまえばいいじゃん!と考えるのも当然だろう』
『(民主主義は)達成できない理想を前提として
現実の政治制度を作った段階で、
最悪の衆愚政治への転落の危険を常にはらんでいることになる。
(中略)
マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、
政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、
民主主義的には行い難いか、行えない。
「こっちの方がよさそう」とか「なんでもいいよ、楽しければ」
というような感じで選択された基盤が、
はたして長期的にみて破綻しない社会を
実現してくれるかはなはだ怪しい。
これは一大事なんだ。
だから、どこかにエリートがいて、
どのような文化的・政治的環境を「自然」なものと
して設定するかについて慎重に準備することが
避けられないんじゃないだろうか。
(中略)
民主的プロセスが動作する基盤は、
最高の理性と知性をもって設計し、
設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか
それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、
強く影響するという危険があるわけだけど、
なんとも仕方がないんじゃないかと思う。』
(白田秀彰『インターネットの法と慣習 第13回』)
『中途半端―教育の欠陥。最悪の堕落現象の一つ。
それはドイツに広がりつつある、全ての問題の中途半端だ。
(中略)
この病気(中途半端病)は教育が助長してゆく。
ドイツの教育は非常に多くの弱点を持っていた。
それは極めて一面的なやり方で、純粋な知識を
教えこむ目的のみで編成され、個々人の性格形成は
軽く見られ、意志と決断力の為の教育など全然なかった。
その教育は強い人間ではなく、従順な物知りとなって現れた。
(中略)
この毒物は何の障害もなく我がドイツ国民の血液のなかに
入りこみ、効き目を現す事が出来、国家はそれに対して
なんら対策を打つことができなかった。
国家がそれに対してとったさらなる中途半端さからは、
ドイツ帝国に迫り来る崩壊の前兆が見て取れた。
なぜなら、自己自身をあらゆる武器を持って守ろうと
決意しないような制度は、それ自体すでに自己を放棄しているのであるから。
(中略)
精神の毒化に対する闘争を始めねばならないのだ。
(中略)
文化の全ての領域において、清浄化を始めねばならない。
演劇、芸術、文学、映画、新聞、広告、陳列窓など全ては、
腐敗した世間の諸現象による汚れをそそぎおとし、
倫理的な、国家及び、文化の理念に奉仕するものとせねばならない。
(中略)
あらゆる事態において、目標と方針は、我が民族の健全さを
保全しようとする心づかいによって決定されねばならぬ。
個人的な自由の権利は、人種保全の義務の前では消え去るのである。
(中略)
指導者になろうと欲するものは最高の無制約の権威を持つと
同時に、究極のもっとも重大な責任も担う。
そうしたことができず、あるいは臆病なために自分の行為の
責任を担うことのできぬものは指導者となる値打ちがない。
英雄だけが指導者となる資格を持つ。
人類の進歩と文化は多数決の所産ではなく、
もっぱら個人の独創力と行動に基づくのだ。
このような人材を育成して、それぞれの資格に応じた
ところに配備することは、我が民族の偉大さと力を
復興する為に必須である』
(アドルフ・ヒトラー『我が闘争』)
こう比べて見ると分かりますが…教授もヒトラーも
大分はおんなじこと言ってますが、なんというか…
教授の方が明らかに小物ですね(笑)
少なくともヒトラーの方は、指導者(英雄)の責任という
ことを述べている訳じゃないですか。
それに比べて、教授は…
『エリートがいて、どのような文化的・政治的環境を
「自然」なものとして設定するかについて慎重に準備する』
この慎重って、大衆を支配する謀みが、大衆にばれない様に
こっそり教授たち(アカデミズムエリートたち)で準備するっていうことでしょう…。
…これって、こっそり陰から支配はするけど、
支配に伴う責任は取らないよっていう、
歴史における最悪の統治者の類型じゃないですか。
…まだ、表にでることを選んだヒトラーの方がマシに見えてきますね…。
大体、現代哲学は、教授やヒトラーみたいな、
客観的な真理(絶対理性等)や力あるもの(民族意志等)は
万人に対して正しい(力ある)ものだから、
それを知る(意志する)選ばれた特権的エリートが、
世界を支配すれば、世界は素晴らしいものになるだろう、
というとてつもなく傲慢で身勝手な思考を批判する為に、
発達してきた側面が大きいのに…。
言葉と物も悲しき熱帯も哲学探求も友愛のポリティックスも
否定弁証法も偶然性・アイロニー・連帯も全体性と無限も
探求T・Uも存在論的、郵便的も構造主義の冒険も…
それらをなにも気にとめるなく無く、学ぶことなく、
他者性を考え想う、全ての哲学的営みをぶっ飛ばし…、
『私(白田)の考える絶対理性は万人に対して客観的!!
だから万人はエリートたる私とその仲間達の支配下におかれる!!』
と教授に叫ばれても、そんな客観性は教授の真理を妄想する脳のなかに
しかないし、教授の脳みそのなかにしかない真理は裡なる真理であって、
それを外なる真理と混同することは全く誤りなのですが、そこで、裡は外!!
とか、エリートの真理は価値が高いのだあ!!とか、ちょっとアレ過ぎる、
俗流デカルト主義の豆まきみたいなことされても…どうしたらよいのか。
あの…言語ゲームとか、家族的類似性って言っても、
多分、教授は分からないですよね…。
えっと…、教授は東先生に『他者ってなんですか?』
と一度、聞いた方が絶対に良いと私は思います。
東先生は教授がこれまでの人生で信じていた
独我拡大客観論を吹き飛ばしてくれると思います。
本で学ばれるのならば、私的には、柄谷行人氏の著書『探求T』が
他者性について書いた本としては、凄く分かりやすくて、お勧めです。
哲学初心者向けに書かれた本なので、前提となる
哲学の素養がなくても、すらすら読める本ですよ。
探求Tを読めば、教授は『私・共同体』のことしか
考えておらず、一切の他者・社会を疎外していることが理解できると思います。
理性は他者に先行しない。先行すると考えると、他者が消えて、
無限モノローグの陥穽(無限ループする理性)に嵌ります。
「規則は跳躍の後から見出されるということ。
《我々のパラドックスはこうであった。
すなわち、規則は行為の仕方を決定できない。
なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させうるから》
(哲学探求201)」
(柄谷行人「探求T」)
システム論的に言えば、教授の提唱する
エリート支配型一元的なシステムは失敗したときに
取り返しがつかないんですよ。
(ナチスやソビエトが実証しています)
現代社会においてシステムを建設的に考えるときは、
情報(プロセス)公開(=外からの干渉)を重視した、
変化と流動の高い柔軟なサブ・システムが
複合的に組み合って、誰も統轄できない
アメーバ的にたえず変化するカオスティックな
メイン・システムが逆説的に一番安全性が高くなると
考えられていて…、自由資本主義の強みというのは
不完全ながらも、このカオスティックなシステムを
実現したところにある訳ですよ。
…一体なぜ、いまさら、絶対理性(=エリート)
が統轄する一元システム
の統合型に戻そうなんて…無茶苦茶ですよ…。
無理にそんなことをすれば、
ソビエトやナチスの二の舞を辿るだけですよ。
人間はシステムを常に創り変えてゆくものなんです。
エリートは愚民どもと違う存在だから、
システムを未来を見通して設計できるなんて、
愚昧な傲慢にも程があります。呆れ果てる。
その傲慢が優生学と民族浄化、
計画経済による経済破綻を生んだのです。
折角のサバティカル、もう少し、
己の見識を広める為に学ばれることを期待します。
参考作品(amazon)
柄谷行人著「探求 T」
柄谷行人著「探求 U」
アドルフ・ヒトラー著「我が闘争 上巻」
アドルフ・ヒトラー著「我が闘争 下巻」
ジョージ・オーウェル著「1984年」
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歌姫と老人達
「しかし一方で、本人も言うように
「歌詞とか音楽って本来はそういうもの」なのである。
特に歌は性的なものである。
なぜならば、声は性器に他ならないからだ。
"She's got a new microphone"と歌われたとき、
"microphone"が声の中に沈み込んでいくのが本当の歌なのだ」
(ユリタコ 詩と批評)
宇多田ヒカルは私の大好きなアーティストですが、彼女の歌について、
ユリタコ 詩と批評のKGVさんが素晴らしい論評を寄せられてますね。
そうなのです。まさにKGVさんがお書きになるように、歌=詩とは
元々セクシャルなものであり、ゆえに反・理性であり、衝動であり、
情動であり、情熱であり、欲望であり、悪(キリスト教的な)であり、
現代では追放されし聖なるものを担い、人間を人間として生かす波動
としての力を現代にも顕現する、僅かな救い、正統なアンチ・メシアで
あるがゆえに、異端のメシアであり、生のメシアなのです。
私は”大統領”や先日取り上げた”教授”のような”老人たち”のやり方、
衰弱した欲望が齎す理性の生の抑圧よりも、宇多田ヒカルの歌の方を選び取る、
彼女の歌を心から愛する―ー
それは、生の歌――
そして、芸術とは元々、生の芸術なのですよ。
美少女ゲーム(ポルノグラフィー)の力は、生の根源にある。
それは、悪の力、生命本質領域への回帰の力、真なる聖の力だ――
ウィリアム・ブレイク
自由の歌
永遠の女がうめき声をあげた。それは地上のあらゆるところで聞こえた。
アルビオンの岸はぞっとするほど静かで、アメリカの野は真っ青だ!
予言者の影が、湖や川のかたわらで震えている。
その呟きは、海を越える! フランスよ、おまえの牢を打ち破れ。
黄金のスペインよ、古いローマの壁を突き崩せ。
おお、ローマよ、お前の鍵を流れ落ちる海に、崩れ去る永遠に投げよ。
そして泣け!
彼女はふるえる腕に生まれたばかりの泣き喚く恐怖の子を抱いている。
今は大西洋に沈められている無限の光の山の上に、
新しく生まれた火が立つ!
星の王の前に。
衰えた不寛容の王は、灰色の眉と白髪の者たち、
雷を呼ぶ者たちを従え、海の上で翼を波打たせた。
燃える手を高く突き上げ、盾の留め金が外された。
王は燃える髪の間から手を突き出し、
生まれたばかりの驚異を力いっぱい星空に投げた。
火が、火が、落ちてくる!
見上げろ、空を見上げろ、ロンドンの市民よ!支持の輪を広げよ。
おお、ユダヤ人よ、金を数えるのをやめよ!
香油と葡萄酒に返れ! アフリカ人よ! 黒いアフリカ人よ!
行け。羽ばたく思想よ、彼の行く手を広げよ。
炎の手足、燃える髪が、西の海に沈む日のように飛び込んだ。
永遠の眠りから覚め、白色の元素は叫びながら逃げていった。
不寛容の王は、灰色の眉の顧問官、雷を起こす戦士、巻き髪の老兵とともに、
虚しく翼を打ったが、舵、盾、戦車の馬、象、また旗、城、石弓、岩のなかに墜落した。
落ち、戦い、滅んた! アーソナの穴の上の廃墟に埋められた。
廃墟で一夜を過ごしたあと、色褪せた重い炎が失意の王を包んだ。
雷鳴と炎を持つ王は、星の軍勢を率いて荒地を進み、十の命令を広めた。
暗く沈んだ海に刺すような視線を投げながら。
朝が金色の胸の羽繕いをしている間に、東の空に火の息子が雲に乗って現れた。
呪いの雲を蹴散らし、岩に刻まれた法を踏み潰し、夜の穴から永遠の馬を解き放って叫んだ。
帝国は消滅した。獅子と狼の戦いは終わる。
夜明けの黒烏のような祭司たちよ。
黒衣に包まれたかすれ声のお前たちに、もう歓喜の息子たちを呪わせはしない。
祭司が受け入れた兄弟、暴君たちよ。
もうお前たちに境界線を引かせたり屋根を作らせたりはしない。
蒼白い戒律の淫売どもよ。
もうお前たちに望みながら行動を起こさない者を純潔とは呼ばせない。
生きているすべてのものが神聖なのだ。
参考作品(amazon)
宇多田ヒカル「EXODUS」