哲学の系譜――しろはた的理想は何を意味するか
重要なのは真理ではなく、有用な真理である。
正確に言えば、真理であれ、半真理であれ、誤謬であれ、
ともかく自身に役立つものだけが重要である。
(フリードリヒ・ニーチェ「反時代的考察」)
師匠

「幸せとはなにか?――といったことを探求する偉大な哲学者」
しろはたさんより。………大爆笑。なにこのエロゲー(笑)←褒め言葉です。
いやあ、しかし、本当にしろはたの本田透さんは哲学的な方だなあ…。
しろはたの本田さんは、常々、生身のリアル女性への敵視こそが、
最も幸せであり本来的な生き方を齎すと説いておられますが、
これは実に哲学において代表的な論証なのですね…。
哲学の歴史とは官能の敵視の歴史。
女性の肉体的魅力への敵視及び童貞であることと哲学にはまさに切っても
切り離せない強力な動因があることは誰にも否定できないのです…。
本田さんご自身は風俗のプロフェッショナルであることを
公言されておられますし、童貞ではないようですが、
それはさておき、哲学と官能には強力な対置関係があるのです。
重大な実際の哲学的事実として、哲学的知性は常に官能を自らの敵とする
ことで、自らの力を保持し続けてきたのです。
詳細を知りたい方には一夜の秘め事により結果、梅毒で発狂することとなったニーチェの
著書「道徳の系譜(禁欲主義的理想は何を意味するか)」の一読をぜひお勧めする。
「情事を(その道具、すなわち女人たる《悪魔の道具》をも含めて)実際に
個人的な敵として扱ったショーペンハウアーと言えども、いつも上機嫌に
いられるためにその《敵》を必要としたということであり、怒気に満ちた、
蒼黒い言葉を愛したということであり、激情から憤るために憤ったということ
であり、もし彼に敵がいなければ、ヘーゲルも女も官能も、生存や生存への
意志全体もなかったとしたら、彼は病気になり、厭世家になったであろう――
――なりたいとどんなに願ったにしろ、彼は病気でもなく、厭世家でもなかった。
それら敵がいなかったとすれば、ショーペンハウアーは
決して生存に留まりはしなかった。これは賭けてもいい。
敵がいなくば彼は生存から脱走したであろう。
しかし、彼の敵が彼を引きとめたのだ。
彼の敵が彼を生存へと誘惑した。
彼の憤りは、古代の犬懦派(シニシズム)とまったく同じように、
彼の清涼剤となり、彼の休養であり、彼の吐気止めであり、
彼の幸福であったのだ」
(ニーチェ「道徳の系譜(禁欲主義的理想は何を意味するか)」)
まあ、簡単に言えば、敵がいるからこそ、
人生は楽しく生き甲斐があるということですね。
なぜ敵がいると、人生は楽しく生き甲斐があるものになるのか。
まず、ここでの敵というのは自分の思い通りにならないものです。
思い通りになるものでしたら、それは敵とはなり得ません。
次に、ここでの敵とは自分が魅惑を感じるものです。
自分にとってどーでもいいものに対しては敵愾心は沸いてきません。
自分が魅惑され、魅力を覚えるものであるからこそ、
それが自らの敵として表れることに怒りを感じるのです。
すなわちどういうことか。本来は意のままにしたいと願う対象が
実際は意のままにならない対象であるとき、それを《敵》とすることで、
その敵を自身の内部で超える可能性を創りだし、より自分を
高めようとするメカニズムが働くのです。
そして、このメカニズムこそ、実は人間に「楽しい」「嬉しい」などの
歓びをあたえる、自らを高めて、人間を生へと留めるメカニズムであるということです。
敵が完全にいない世界(すべてが自らの思いのままになる世界)だと、
このメカニズムが働きませんので、欲望が歯止めなくただ噴出するだけとなり、
結局は、生と死の欲望のバランスが働かなくなり、自己破滅へと導かれるのです。
敵がいるからこそ、人間はその敵すら自らの裡に取りこんで成長し、
成長するからこそ、人間は生きることができるという、
まあ、生きている我々にとって、実に当たり前のことですが、
このことは現代において表面上は見えにくくなっているので、
しろはたの本田さんのようにこのことをはっきり明示する方の
存在は、我々にとってとても良い働きをしていると言えますね(^^)
ちなみになぜ表面上見えにくくなったのかと言いますと、
そこにはキリスト教のルサンティマン、すなわち(建前としての)「平等主義」
が強力に社会を覆い尽くしていることが挙げられますが、
このことについて語ると果てしなく長くなるので今回は略します。
詳細を知りたい方はニーチェの「道徳の系譜」をお読みくださいな〜。
次は具体的なメカニズムについて見て行きましょう。
具体的には、このメカニズムにおいて、肉体的に欲求を満たそうとする方向へ
動けば、いわゆる「DQN」などと称される体育会系ナンパ師へと
変貌するかも知れませんが、精神的に欲求を満たそうとする方向へ
動けば、それは哲学的な《精神性探求》への道になるのです。
これは否定されるべきルサンティマンとはまた違います。
否定されるべきルサンティマンとは、他者が作り上げた
架空の価値(宗教神話)に縋ることで、己が裡の価値観を
放棄して、自らの価値の転換を図ることですので、自身のメカニズムで
自身を高めて行くこの行いは、ルサンティマンとはなりません。
再び、「禁欲主義的理想とは何か」から引用致しましょう。
「地上に哲学者が存在する限り、また哲学者が存在したところでは
どこでも、官能に対する哲学者特有の怒気と怨恨が見られるという
ことは争い難い事実である――(中略)
あらゆる動物は、《哲学者動物》も含めて、各自の力が最大限に
発揮され、各自の権力感情が最大限に発揮されるに最適な《最善状況》
を本能的に追求する。あらゆる動物はその《最善状況》への道を
遮るような、また遮りそうな一切の妨害や障害を本能的に、
しかも「すべての理性よりも更に高い」鋭敏な嗅覚をもって忌避する。
――これは、「幸福」への道ではない。
むしろ、力への、行為への、最も力強い行為への道であり、
しかも大抵の場合において実際は不幸への道である。
かようにして哲学者は、結婚と結婚を説きつけそうなものをともに忌避する。
――結婚はあの《最善状況》を妨げる宿命的な障害であるとして。
これまでいったい偉大な哲学者の誰が結婚したか。
ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、
カント、ショウペンハウアー――彼等は結婚しなかった。
のみならず、彼等が結婚した場合を考えることすらできない。
結婚した哲学者は喜劇ものだ――これが私の教条である。
そしてソクラテスのあの例外はどうかと言えば――
意地の悪いソクラテスは、わざわざこの教条を証明するために、
《反語的》に結婚したものらしい。
哲学者はみな、かつてブッダに子どもが生まれた時に
沈思して言った事と同じ事を言うであろう。
「私に《ラーフラ》が生まれた。私に桎梏がかけられた」と。
ラーフラとはここでは小さな魔を意味する。
すべての「自由精神」にしても、いままで無思慮な日々を
過していたとすれば、かつてブッダに来たのと同様に、
彼等にも沈思の時がくるであろう。
――ブッダはひそかに考えた。
「在家の生活は狭苦しい。それは不浄の場である。
自由は出家にある」と。
そう考えたがゆえに、彼は家を出たのである。
禁欲主義的理想の裡には、自由への多くの橋が掛けられている。
だから哲学者は、かつて一切の不自由を否定して荒野に
出ていった人々の物語を、たとえ彼等が強い驢馬に過ぎず、
強い精神とはまったく反対のものであったとしても、
心からの欣喜と拍手を持ってその物語を聴いたのだ。
してみると、禁欲主義的理想は哲学者において何を意味するか。
私の答えは――諸君はつとに察知したであろうが――こうである。
哲学者は禁欲主義的理想を一瞥する時、
最も高く最も大胆な《精神》の最善なる諸状況を認め微笑する。
――彼等は理想によって生存を否定しない。
彼等はかえってその裡に彼の生存を肯定し、
そしてただ唯一彼の生存のみを肯定する。
しかも彼は、それを恐らく次の無道な願望に通ずる程度に肯定する。
曰く、《世界が滅びんとも、哲学は栄えよ、
哲学者は栄えよ、我は栄えよ!》と………」
(ニーチェ「道徳の系譜(禁欲主義的理想は何を意味するか)」)
引用してて思わず笑ってしまいますが、
真実とは常にお笑いであるものです(笑)
はっきり申しまして、これは哲学的に確実な真実ですね。物質性よりも
自らの精神性を重んじる《哲学者タイプ》は私も含めて、みんなこの通りですよ。
自らの精神性が常に世界の頂点にあって
すべてはそれを高めるために動いている訳です。
これは既に亡くなった哲学者から、現代でばりばりの哲学者、
すべてに言えることですね〜。勿論、本田さんにも。
ただ、一つ注意しておいて頂きたいのは、これはあくまで
私たち=哲学者タイプの人間だけに当て嵌まる真実なのであって、
すべての人々に当て嵌まる訳では決してないということです。
「気苦労を重ねながら女をナンパして抱くよりも、好きな本を読んでいた方が
ずっと精神的に楽しく、肉体よりも精神の楽しみの方がずっと悦楽的だ」
と心から思える人物だけが、自らにとっての
《最善な状況=精神性を重視する状況》
を最適化する為に、それを高く持ち上げるのです。
これは、私もこっち側(精神優位)のグループの人間なので、
本田さんたちが代表となってこちらを高く持ち上げていることは、
今まで、肉体を重視する側の人々(所謂、結婚をスタンダート
とする世間的諸勢力)にこちら側が不当に低く貶められていた
ことを思えば、ある程度は然るべきことであり、良いと思いますが…。
ただ、あくまでこれは当然ながら絶対の規範ではなく、
自身の規範というものは、各個人個人の素質・素養・環境などによって
自ら定めて行くものであるということ、このことは忘れないで、
人々には自らの道を選んで欲しいなあと思います。
誰も、他人の規範など選ぶことができません。
自らの規範は自らが定めてゆくものであり、
自らの規範を捨て他者の規範に隷属することを
先ほども挙げました通り、ルサンティマンと言うのです。
自ら精神性を選び取れば、それはルサンティマンではありません。
然し、他者が唱える精神性を盲信してしまえば、
それは隷属であり、ルサンティマン(怨恨)であり、自らを滅ぼします。
これは肉体性であろうが、他のものであろうが同様です。
自ら自身を省みて、自ら選んだ、自らの道を――
フリードリヒ・ニーチェ
ツァラトゥストラ
いい趣味も、悪い趣味もない。
わたしの趣味なのだ。
わたしはもはやそれを恥としないし、隠しもしない。
「これが――わたしの道なのだ、
――あなたがたの道はどこにあるのか?」
と、わたしは、わたしに道を尋ねた人々に返事をした。
つまりいわゆる「万人向けの道」は――ないのだ!
ツァラトゥストラはこう語った。
参考図書(amazon)
フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラはこう言った」(上巻)
フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラはこう言った」(下巻)
フリードリヒ・ニーチェ著「反時代的考察(上巻)(全集1-2)
フリードリヒ・ニーチェ著「反時代的考察」(下巻)(全集1-5)
フリードリヒ・ニーチェ著「人間的な、あまりに人間的な(上巻)(全集1-6)