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下記エントリの他、「喪男の哲学史」関連エントリも纏めています。2/3エントリ追加。

本田透「喪男の哲学史」 −真理への意志−

しろはた(公式サイト)   本田透「喪男の哲学史」

ルネサンス(文芸復興)とは、決して新しい文化を生み出そうとした
ムーブメントではなく、実は古代ギリシア・ローマという過去の遺産の
「再発見」でした。人間の文明の基本は温故知新というやつで、
埋もれた古典を振り返る過程で新しいものが生み出されるわけです。
ところが最近では、どうも様々な文化の歴史というものが軽視され、
目の前のトレンディな知識だけがチヤホヤされる傾向があります。
これでは人間はどんどん愚かになってしまいますよ。
知識の量が問題なのではなく、知識というものを
体系的に、歴史的に捉えることが重要なんです。

(本田透「喪男の哲学史」)

本田透「喪男の哲学史」読了。とても良い哲学書ですね…。
哲学史書として、日本語で書かれた本の中で最も優れている本である
と思いますよ。哲学徒には勿論のこと、一般の方にもお勧めです。

本著は分かりやすく、読みやすく、哲学の全史を語り尽くすという見事な
哲学書ですが、決してそれだけでなく、ニーチェの著作を読んでいるときに
感じるような、「血で書いている」としか云い様のない、知への真摯な誠実さが
伝わってくる本で、とても素晴らしい。後半の章なんて、涙なくしては読めない…。

ニューアカ哲学なんて、「モテ」のアイテム、ファッションにしか思えませんでした。
「言語で世界を説明し尽くす」ことの不可能性は、(既にソシュール
も丸山圭三郎もウィトゲンシュタインも出てきていて)既に明らかでした。
中学生でも分かる理屈です。そんな時代に「言語」だの「知」だのといった
抽象的で実体のない言葉を弄する周囲のニューアカ学生を、僕はまったく信用
できませんでした。文系女子にモテたいからニューアカを齧っているだけなんだ。
「ホットドックプレス」を読んでバカ女にモテようとしている体育会系の男と
(小難しそうなことを得々と語るニューアカは)本質的に同じなんだと喝破したのです。

………

ソシュールが出てきた時点で(西洋哲学は)とっくに終わっていたのです。
ああ、僕は無知蒙昧な田舎モノだった。文学部なんて入るんじゃなかった。
文学部なんて、もうすぐ消えてなくなる。少なくとも、哲学科は、いらない。
いますぐ消えても誰も困らない。僕は自分の喪男としての苦しみを癒すために、
喪男の悲しみを終わらせる方法を探求するために哲学科に入ったのに、
そんなことを考えている奴はどこにもいない。
モテのことで頭が一杯。モテるための哲学。

腐っている!

哲学は腐っている!

どうしてこうなったかというと、簡単なことだ。
政治の季節が終わり、さらには科学が哲学に取って代わったからなのだ!

哲学にはもうやることがないのだ。
だから資本主義に組み込まれてモテアイテムになったのだ。
ラカンなんて何書いてるのか、さっぱりわからねえ!
精神分析と数学の融合なんて、インチキだ!
ただの衒学趣味、エセ学問だ。

(本田透「喪男の哲学史」)

…涙が出たよ…。私がこの世で一番信用しないのはラカンを得々と
語るニューアカですね。最強モテ哲学アイテム、ラカン。なぜ最強なのか。
それは「訳が分からない方が偉い・カッコいい」と云う信じがたい
悪疫に日本ニューアカは汚染されていて、訳の分からないものを、
訳が分からない言葉回しで語るのが女の子にモテる道みたいな、
そういった発想から、訳の分からないラカンが、訳が分からないゆえに
重宝される。本田透さんが語るようにラカンは訳が分からないから、
いかようにも解釈できて、それでいて彼らはその意味不明さを誇り
ひけらかして威張っていて…メチャクチャだよ…。…日本だけじゃなく
海外本家の方でも、ラカンはオカルトアイテム化しているようですね…。

でも、「訳が分からない方が偉い・カッコいい」なんて、哲学となんの
関係もないことじゃないですか。本著は極めて真摯に、誠実に、そして
何よりも”分かりやすく”これまでの哲学史を世界史的に語る本著こそ、
真の哲学の実践であると、私は心から思いますね。これこそ哲学ですよ。

哲学史的に個人的に共感できるなと思うのは、体系化(派閥化)が、
哲学・宗教を変質させて組織哲学・組織宗教にしてしまい、それら
組織の求める権力が世界史に様々な影響、特に破滅的な影響などを
与えてきたことをきちんと描いていることですね。特に、国家萌え、
民族萌えの問題において、哲学徒が逃げることの多い「ナチス問題」に
ついて、真正面から取り組んでおり、ナチスは、哲学や萌えの一つの形、
国家萌え、民族萌えであり、ナチスもその支持者も哲学徒・萌えオタ・喪男。
哲学徒・萌えオタ・喪男の邪悪さはファシズムと親和性があるときっぱり
書いて、哲学徒・萌えオタ・喪男の邪悪さをきっちりと戒めておりますね。
哲学史を記述する上で、凄く好感の持てる、勇気ある姿勢と感じたよ…。

哲学の教科書や参考書はナチスドイツについて決して
語りませんが、(都合が悪いのでタブーにしているようです)
哲学史を書く以上、ナチスは避けて通れない問題です。

………

二次元しか見えていない喪男(ヒトラー)が三次元の権力を
握ってしまったら、「俺」イコール「世界」という観点から
好き勝手なことをしはじめるわけです。………もうちょっと
普通の言葉で言うと、(哲学徒・萌えオタ・喪男のような)
理念先行型・理想至上主義でしかもルサンチマンが
溜まっている人間が実際に政治を行うと、現実の人間を
ゴミのように扱う危険があるわけです。理想のために
現実を犠牲にすることによって、現実に復讐するわけです。

………

もちろん三次元の世界は、個人の力で変えられるものではありません。
そこで集団化が求められます。ですから、共産党とかナチ党といった
革命政党が(虐げられている)喪男たちの支持を集めたわけです。
つまり、喪男を虐げたまま放置しておくとやがては革命が起きるかも
しれないのです!これは自民党の皆様によく覚えておいていただきたい
歴史の教訓なのです。秋葉原を滅ぼせば、(二次元を失ったオタクが
ファシズム・全体主義に走ってゆき)天下が乱れるやもしれぬのです!

………

西洋の有名哲学者はどいつもこいつも自分と世界の区別がついていない
セカイ系喪男だったのかもしれません。人間ごときに「世界の存在意義」だの
「世界の本質」だのを見抜けるはずがありません。それも、言語という二次元
(観念)の妄想体系だけで世界の運命を理解しようなんて、とてもとても…。

………

「世界を救う」とか「人類を救う」とか言ってる人は、だいたい、
個人的なルサンチマンを全人類に勝手に敷衍しようとしているだけです。
そうすることによって、自分の苦悩を希釈できると誤解しているんです。
つまり、頭のなかで世界と自分を一体化しているのです。しかし、
その果てには、第三帝国のような(一切の他者を抹殺する)悪夢の世界
が待っているのです。だって世界イコール自分なら、どこにも「他人」
なんていないんですから、何やったっていいわけですよ。

………

でも一生(自己の内部にある悪から眼を逸らし続けて自己の悪に)
気がつかないというのも楽しい生き方かも知れません。
気づいたら死ぬほど苦しみますからね。一生気づかないですませる
方法は幾つかありますが、とにかく自分より「下」の他者を見つけて
きて笑ってバカにするのが一番よろしいです。探せば「下」は
いくらでもいますし、「SPA!」とか読めば毎週見つけてきてくれます。
それでもしんどくなってきたら、また別の「下」を探せばいいんです。
そうやって他人をバカにし続けて、「俺はあいつよりマシだ」と
思い込み続ければ、あまり苦しまずに自分自身の人生から目を
逸らしたまま安楽に一生を終えられます。もしますます惨めに
なってきて他人を笑う程度では収まらなくなってきたら、
次はよその民族とかよその国家とかをバカにすればいいんです。
バカにする対象のスケールをアップしていけばよろしいのです。
それでもダメなら宗教だ。異教徒を弾圧するのです!

一部の「うっかり気づいてしまった」あるいは「無理やり
気づかされてしまった」喪男を除くほとんどの人間の人生は、
そうやって終わっていくのです。いまも昔も、世界はそういう
無明の闇を生きる人々の憎しみに満ち満ちているわけです。

(本田透「喪男の哲学史」)

非常にシビアかつ正鵠を射た認識で、素晴らしいと思いますね…。
本田透さんの絶望は深い、本田透さんは哲学徒も萌えオタも喪男も
人間は皆、ルサンチマンを抱え、救い切れない悪を抱えた邪悪な存在で、
そして、それは何らかのきっかけ、社会状況によって、いとも容易く
暴走し、破滅的な破壊を撒き散らすし、それは誰も止められないと達観
している。本田透さんは、決してオタクのシンパでもなんでもなくて、
他の人間達と同じように、オタクにも冷たい、冷徹な観察者の眼差しを注ぐ。
オタクの邪悪さ、ファシズムやレイシズムとの親和性をきちんと見抜いている。
これこそ、哲学徒、学究の徒として、最も立派な、知への誠実、真理への意志
ですね…。こういう冷たい眼差しに、知の気高さを感じ、私は喜びを覚えるな…。

本著自体が優れた哲学史書であるだけに留まらず、反・権力の書としても
非常に優れている。本著は、体系、体制、集団を形造るものが、悉く、
初期の理念を失い、ただただ権力だけを求める無間地獄に落ちてゆく様を
「哲学の堕落」という形で、何千年間の様相を、ずっと丹念に描いている。
結局人間は、いかに高邁な理念を掲げようとも、体系、体制、集団を形造る
ことによって、瞬く間に堕落し、他者を攻撃することで自我の安定を求めようと
目論む、根本的に邪悪な、どうしようもない存在であることを哲学の全史に
渡る発展と堕落の流れのなかで認識するという、極めて豪華で見事な著書。

本著のなかで本田透さんが何度も書いていることは、他者を破壊しようとする
欲望(鬼畜欲)は根源的なものだが、個人一人一人がそれを抑える努力をしないと、
それはただでさえ地獄の世界をますます血みどろの最悪の地獄へと変えてゆく、
萌えというのは、そういった邪悪な欲望を三次元に対して行わない為の安全弁、
二次元世界で善悪無記の自由(萌え)を行使することで、三次元での悪を抑制し、
できるなら三次元で他者に善を成すためにあることであって、萌えとかオタクとか
そういったことで、他の人を攻撃するような使い方をするようなものではないと…。

まさにこの通りだと私も思いますし、東洋哲学的な方向を模索されるのは
よく分かるなと…。他者への攻撃性を減らし、なおかつ自らの苦しみを減らし、
自らの喜びを増やそうと考えると、西洋哲学ではどうも上手くゆかない。
本著で書かれるように、西洋哲学の基本は「産めよ増やせよ」、自分の力を
増大させることですし、そうすると、どうしてもリソースの奪い合いから、
永遠に闘争が続き、技術革新によって闘争技術が上昇し、他者への攻撃性が
増大してゆく…。資本主義の精神では、人間は不幸になるばかりであって、
そこにどうやって、脱・資本主義的な方向性を取り入れるか、その一つと
して「萌え」(個人主義的解脱)の精神がある、と…。本田透さんって、
日本有数の本物の哲学者である鶴見俊輔さんに似ていますね。鶴見さんも、
母親との辛い桎梏があり、そして長じて哲学を学んだ後、この段で述べた
ようなこと、本田透さんと同じようなことを考えて、強靭な個人主義と、
東洋哲学的な方向性を見出した方ですからね…。萌えの精神を貴び、
三次元恋愛(男女関係の資本主義的形成)を拒否することによって、
「脱・資本主義、脱・攻撃性、脱・組織」という方向性への実践を始めた
本田さんは、ニーチェに匹敵するような、真実の哲学者と私は深く感じますね…。
冷たい眼差しで探求する姿に、現世利益を超えた、真の意味での「愛」を感じます…。

孤立せずに集団を作った喪男、あるいは一人の喪男カリスマを
崇拝するために集まった集団は、偉大な足跡どころか人類史に
大きな傷痕を残したケースが目立ちます。これは構造的に不可避
なことなのです。人は集団化すれば、三次元を書き換えようと
するものです。そこから一つしかない三次元を複数の集団で奪い合う
争いが生まれます。ですから喪男は、友達は一杯いてもいいのですが、
魂のコアな部分においてはキルケゴールのように孤立するべきなのです。
「自分で自分を救う」という覚悟が、自立が必要なのです。

(本田透「喪男の哲学史」)

萬の事はたのむべからず。
おろかなる人は、深く物を頼む故に、恨み怒る事あり。

勢ありとて頼むべからず。強きもの先づ亡ぶ。
財多しとて頼むべからず、時の間に失ひやすし。
才ありとて頼むべからず、孔子も時にあはず。
徳ありとて頼むべからず、顏囘も不幸なりき。
君の寵をも頼むべからず、誅を受くる事速なり。
奴從へりとて頼むべからず、背きはしる事あり。
人の志をも頼むべからず、必ず變ず。
約をも頼むべからず、信ある事少し。
身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。

左右ひろければさはらず、前後遠ければ塞がらず。狹き時はひしげくだく。
心を用ゐる事少しきにしてきびしき時は、物にさかひ、爭ひてやぶる。
ゆるくしてやはらかなる時は、一毛も損せず。
人は天地の靈なり。天地は限る所なし。
人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極らざる時は、
喜怒是にさはらずして、物のためにわづらはず。

(吉田兼好「徒然草」)

何が高貴であるのか――?

いかなる(外的・現世的な)賞賛も求めないこと。
私達のなすのは、己に有用なものであるか、
己を満足せしめるものであるか、
己がなさざるをえないものであるか、であるから。

(ニーチェ「権力への意志」)

仏陀が「四聖諦」を提言し、その第一に
「人生は苦である」
と説いたのは、まったく正しかった。

………

冷たい知的分析は、我々が耐えて行かねばならない無数の苦悩を、
いささかも軽減しはしない。情け容赦もなく我々に負わされる苦しみは、
逃れるすべはない。人生とは、どう論じようとも、結局苦しい闘争である。
だが、これは、天意(運命)によるものである。なぜならば、
(避けられぬ苦しみに)苦しめば苦しむほど、あなたの人格は深くなり、
そして、人格の深まりとともに、あなたはより深く人生の秘密を
読みとるようになる。すべて偉大な芸術家、偉大な宗教的指導者、
偉大な社会改革者たちは、峻烈この上ない戦いのなかから生まれた。
彼らはその戦いを勇敢に、そしてきわめてしばしば、血と涙を持って
戦い抜いたのである。悲しみのパンを口にすることなくしては、
あなたは真実の人生を味わうことはできない。

天が偉人を成そうとするとき、天はあらゆる試練をその人の
上に課し、ついに彼が、その全ての苦しみの経験を克服して
意気高らかに出て来たるのを待つ、といった猛子は正しい。

………

かれ(オスカー・ワイルド)は「獄中記」の中で、このように叫んでいる。

「この二三ヶ月の間に、私は恐ろしい困難と苦闘の末、苦しみの底に
隠されている教訓がいくらかわかるようになった。(安楽に生きている)
牧師や智慧なくして言葉を操る人々は、時に、苦しみを、不可思議と
して語る。それは、本当は、啓示なのである。人はそれまで全く気が
つかなかった事柄に気づく。歴史の全体が、異なった見地から見えてくる」

(鈴木大拙「禅」)

人の心に個の真境あり、絲に非ず竹に非ずして、
自ずから恬愉し、烟ならず茗ならずして、自ずから清芬あり。
須らく念浄く境空じ、慮忘れ形釈くべく、
纔かに以て其の中に游衍するを得ん。

(訳文)人の心のなかには、一つの真実の境地がある。
この境地を得た人は、琴や笛などの音楽によらなくとも、
自然に心が安らかになり、香や茶によらなくとも、
自然に清らかな芳しい境地にひたることができる。

このような境地になるには、心を浄らかに保ち、
ものに対するとらわれをなくし、思慮分別の心をなくし、
自己の肉体から解放され、そこではじめて
ほんとうの境地で自由自在に行動することができるであろう。

(洪自誠「菜根譚」)

参考図書(amazon)
本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

吉田兼好「徒然草」

鈴木大拙「禅」

洪自誠「菜根譚」

フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」(上巻)

フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」(下巻)

萌えと悟り  −己自身であることの意志−

しろはた(公式サイト)   鈴木大拙「禅」  本田透「喪男の哲学史」

鈴木大拙「禅」から引用。

仏陀の教説は彼の「悟り」を基礎とする。
そしてその目的は、我々一人一人をこの
「悟り」に至らしめることにある。
だから、仏教とは、この自分の外にあって、
自分と何ら直接の関係をもたない、
などというようなものではない。
仏陀は、徹底した個人体験の主張者であった。
かれは弟子たちに、権威や長老者にただ憑依する
ことなく、それぞれの個人的体験を重んぜよと、
力をこめて説いた。自分自身の解脱のために、
めいめい力の限りを尽くすよう教えたのである。
『法句教』に次のような詩がある。

まことに、自ら悪をなして自ら傷つき
自ら悪をなさずに自ら浄らかである。
浄と不浄はおのれ自らに属し
誰も他人を浄めることはできない。
(法句教165、166)

これは、あまりにも個人主義的にすぎると思う者も
あろう。だが、結局は、人は喉が渇いた時には、
自らの手でコップを傾けなければならない。
天国、もしくは地獄では、誰も自分の代理を務めて
くれる者はいないではないか。「悟り」はめいめいが
自分で体験しなければならない。だから仏教は、
仏陀の「悟り」に基づくその教えを、弟子達がただ
鵜呑みにすればよいというものではない。
それは弟子達がそれぞれ自分自身の体験によって、
自らそれを味わうときに成立するのである。

(鈴木大拙「禅」)

ここで仏陀が説くことと、「喪男の哲学史」で本田透さんが
説いていることは、共通していますね…。悟りを萌えに読み替えれば、
これは本田透さんの言説となる。こういう、強靭な個人主義、
一人一人個人の極私的体験を最も大切にする個人主義、私は好きだな…。
坂口安吾なら、教祖になることを否定する意志、
己自身で在ることの意志とでも書くだろうか…。
人間の自由は、こういう個人主義のなかにしか、存在し得ないと思います。

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、
生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。
なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり
脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、
天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、
自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。
そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。
堕ちる道を堕ちきることによって、
自分自身を発見し、救わなければならない。
政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

(坂口安吾「堕落論」)

参考図書(amazon)
鈴木大拙「禅」

本田透「喪男の哲学史」

坂口安吾「堕落論」

世界で最小の自由国家 −イシと鶴見俊輔さんと本田透さん−

本田透「喪男の哲学史」  シオドーラ・クローバー「イシ」

鶴見俊輔「イシが伝えてくれたこと」より、引用。

西洋哲学史は、その全部をプラトンに対する注として読むことが
できるという。その傾向は中国にもあって、あらゆる著作は
「論語」に対する注として読めるというように、新しい発見は
全部新しい注(元からある体系理論の追加)として発表される。

これは面白いかたちなのだが、哲学史の書き方は、必ずしも
そうでなくていい。自分がすでに採用している生き方に対する
コメンタリーとして、哲学を書くこともできる。
どちらかといえば、私はそちらの方をとりたい。
哲学というものを個人が自分で考えて動くときの根元の枠組
として考えたい。哲学とは、当事者として考える、その考え方の
スタイルを自分で判定するものだ。ある当事者の前に開かれている
一つの視野がある。独特の遠近法、パースペクティヴという
ようなものがある。それが、私の定義するところの哲学だ。

………

アイザヤ・バーリンが、なぜ哲学論文が難しくなるかという問題を
書いている。哲学の根本の考え方は単純だという。………
(しかし、哲学学者達が人々の意見を封じる為にわざと哲学を難解にし、
哲学業界の象牙の塔に篭ることで)哲学者の駆使する言語を用いないと、
「あんなやつは哲学者じゃない」という風になってゆく。
私は、専門哲学の外にいる哲学者が人類のなかにいると考え、
むしろそこから、その哲学を考えてみたい。

そのもとになるのは、イシというヤヒ族最後の人だ。
ヤヒ族は、カリフォルニア北部のミル川・ディア川流域に
住んでいた原住アメリカ人の小部族である。彼らは、白人が
侵入してくる直前には、三四百人いたといわれている。
たび重なる大殺戮の結果、イシ一人を残して一族は全滅していった。

イシと親しくつきあった文化人類学者アルフレッド・L・クローバーは、
ヤヒ族のことを、「類のない忍耐力と強固な性格によって、
有名なジェロニモの率いるアパッチ族より二十五年も長く
文明の流れに抗し続けた世界で最小の自由国家」と表現している。

………

イシは(仲間達を殺され、たった一人で)潜伏と孤独の暗い人生を
通ったにもかかわらず、快活だったという。写真を見ると、魅力のある
いい顔をしている。偶然、(イシの住んだ)オロヴィルというところは、
ゴールドラッシュの町だった。フォーティーナイナーズという
言葉があるが、1849年に金が出て、たくさんの人たちがこの町にきた。
その思想、哲学というのは、金がたくさんとれれば人を殺したって
かまわないという、全く金本位のものだった。そして、どんどん
インディアンを殺していって、自分達の場所を確保する。

そのフォーティーナイナーズとイシを比べてみると、同じ時代に
生きていて、ゴールドラッシュで呼び寄せられた人は、精神が荒廃している。
イシはそうではなかった。一人になっても卑屈ではなく、今、自分の
考えていることを表現する。たとえば、イシは白人たちは自然の
理解に欠けていると評価した。そういう意味でイシには文明批評があった。

「イシは自分から進んで白人の生き方を批評したりはしなかった。
……彼は白人を幸運で、創造性に富み、とても頭が良いと考えた。
しかし、望ましい謙虚さと、自然の真の理解――自然の神秘的な顔、
恐ろしさと慈悲の入り混じった力の把握において幼稚で欠けるところ
があると見ていた」(シオドーラ・クローバー「イシ」)

このように、イシには生産本来、金本位でない見方があった。
この道徳というものの保ち方、それは人類の最後のとき(※)
への一つのパラダイム、手本になると思う。
(※:鶴見俊輔さんは、人類の最終的な滅亡(人類全体の死)は
不可避と考え、その上で、その死のときまでに、ほんの少しでも
人がより良く生きるにはどうしたらいいのか考え続けている哲学者。)

市井三郎は、自分にいわれなく与えられた苦痛を少なくするのが
文明の進歩だと考えていた。(「歴史の進歩とは何か」岩波新書)
その進歩の定義を尺度にすると、ゴールドラッシュで集まってきた
白人とイシとでは、明らかにイシの方が進歩している。

………

文明社会に現れてから、その後五年間、博物館の一室に住み、
主任小使の助手としてイシは生きた。自分が働かないと金をもらう
わけにはいかないと考え、イシは喜んで働いた。居留地に置いてもらい
アメリカ政府から補償金をもらうのではなく、それを拒絶して、
自分で給料を稼ぎ出した。そのようにして、イシはアメリカ文明の
内部にあって、対等のもう一つの文明を持つ者として生きて、
揺らぐことがなかった。そういう対等性を保つのは難しいことだ。

イシは全体として、文明人は知識(技術)はあるが、知恵のない
人たちだと見ていた。彼は文明社会の病気である結核で死ぬのだが、
最後の言葉は「あなたは居なさい、僕は行く」死に対する感じ方に
おいても、平然とした態度を崩さない。これは文明人には稀なことだ。

………

哲学者としてのイシの影響力を受けとめることのできた三人の
人がいて、一家をなしていた。すなわち、それはクローバーから
シオドーラ夫人に、さらには娘へと伝わった。………
クローバーはイシと話をし、イシの体験を追体験するという仕方で、
白人が原住アメリカ人にやった凄惨なことを自分で背負ってしまった。
そのことをクローバーは、大変に悩んでいた。その悩みが細君に伝わり、
彼女はイシの伝記を書くのだが、それはさらに娘に伝わっていく。

娘は1929年生まれで、フランス人と結婚した。アーシュラ・K・ルグィン
という名前で、ゲド戦記その他、SFを三十冊も出している。クローバー
の悩みがこれらの作品を書く上で力になっている。そのことを、
ルグィンは「イシ」の序文にきちんと書き込んでいる。

………

「太古の言葉は、今も竜が話している言葉である」と(ゲド戦記)
は言う。太古の言葉とは、我々の暮らしのなかで言えば、生まれた
ばかりの子供が喋っているものなのだ。文明社会のなかで生きていると、
だんだんにその文明が(心身のなかに規律として)入っていってしまうが、
それ以前に子供は、非常に強い問題を、太古の言葉で、哲学的な質問
として投げかけている。これに対して「子供は黙っていなさい」とか
「大人になりゃわかる」なんて言い返すのは間違っている。子供の質問は
きわめて哲学的なものなのだ。それを子供の言葉で答えようとすれば、
これはルグィンの作中人物である魔法使いと竜の対話みたいになる。
その状況は私達の毎日の生活のなかで繰り返し起こっている。

私が体験したことで、そのことの意味を考えてみたい。1938年の秋に、
私はアメリカの寄宿学校に行った。あるとき、夜、寝る前に歯を磨いて
いたら、そこに生徒が二人来た。………私は英語を喋る能力を
持っていなかったが、聞く能力はある程度あった。すると、
「こいつに話したってわからないよ、無駄だ」と一人が言う。
その相手は、「ゆっくり話せば必ず分かる」と言って、二人で
論争している。そのとき、言葉の喋れない者は知恵のない者
だという、そういう信仰を片方が持っていることが分かった。
知恵とは、そんなものではないのだ。

………

私にもっとも影響力のあった人間は、(家庭の専制君主だった)
母親以外にいない。だから、あらゆる著作は、私にとっては、
母親に対する答えなのだ。………どんなにおおきな空間でも、
私にとってはおふくろに支配されている空間だった。だから、
私にはスターリンがすぐわかる。つまり、プラグマティズムの
言葉で言えば、筋肉と内分泌の分泌で、私にはスターリンがわかるのだ。
その恐怖から、私はマルクス主義者になったことはない。
また、私は女をばかにしたことがない、おそろしいという感じがある。

………

(母親に強権的に支配されて)自殺するか、精神分裂病になるか
すれすれのところを通ってきた。今でも危ないところを通ったなと
思って、生きていることを祝福している。私の置かれていた状況は、
居留地に閉じ込められていたアメリカ・インディアンと、基本的に
似ている。白人の文明を全部押しつけられたんだから。クローバー
のような(相手を差別・攻撃せずに個人としての尊厳を認めることのできる)
人間がいて、イシと対等に付き合うことによって、アメリカ社会
のなかで、イシが自分を失わずに生きる条件をつくった。

イシとルグィンがともに言っていることなのだが、自分の名前は
自分だけが知っていればいい、ということがある。
「ゲド戦記」のゲドはかなり高い魔法を身につけたけれども、
彼の名前を知っているのは六人しかいなかった。それで十分なのだ。

イシは、自分の名をクローバーにさえ言ったことがない。
自分の名を明かすことなしに、つまり自分を失うことなしに、
終わりまでいって、死んだ。クローバーは、踏み込んで
イシの本当の名前を聞こうとはしない。イシという名は
クローバーがつけた。イシというのは「人間」ということだから、
イシが人間なのだ。そういうものとしてクローバーは見た。
だから、クローバーのこの名付けには深い哲学的知恵がある。

………

「ゲド戦記」のゲドが、魔法学校に行くと、その達人が教えてくれる。

「長は、また、この術が多くの危険を孕んでいることを語り、
なかでも、魔法使いが自分の姿を変えるときには、自らの呪文から
逃れられなくなる危険を覚悟しなければならないと注意した」
(ルグィン「ゲド戦記」)

これは、現代の自然科学技術がほとんど惰性でどんどん進歩してゆく、
そのことを望遠鏡で見ている。魔法学校をでて、大変な秀才で魔法使い
になったゲドはふるさとに戻って、かつて魔法の手引きをしてくれた人に
会うと、もとの先生はたいへん喜ぶ。「やあ、来たか」ゲドの答えは
「はい、出て行ったときと同じく愚か者のままで」これは素晴らしい。
………精神科医の中井久夫の、成熟の定義がある。「退行の泉で
湯浴みして、もとのところに帰って来られるもの」それが成熟なのだ。
自分が愚か者であるところまで繰り返し行く。それ(自らの愚かさを
内的に自覚し、その愚かさと行き来できる通路を持っている)が
できない者は成熟していない。大変に未熟な状態で、
原爆を作って投げたりするようなことになるわけだ。
これが、ルグィンがイシから汲み取った知恵だ。

魔法使いの自戒は、あることを変えたら、宇宙の均衡をそれで
破ることがあるということだ。宇宙の均衡を元通りにできない
ようなことをすることができるのは、人間だけなのだ、という
ことを一生懸命魔法学校で教えている。だが、現在の日本では、
そういうこと(物事の一回的な取り返しのつかなさ)を教えない。

………

現代社会の魔術といえば、科学がある。そのほかには、名声と
権力と金だ。科学、名声、権力、金、そのどれにもイシは
のせられなかった。これは、ものすごい知恵だ。
名声を得ると、自分が偉くなったような気がして、
それに乗っかって、次々ものを書いたり演説したりするようになる。
それが、おそろしい。

………

イシは森にいて気配を読む。狩りのときにはそうする。
(沈黙している森=世界の)気配を読む力は文明にも必要ではないか、
文明はそのテクニックを失ったというのがルグィンの考え方だ。

………

黙っていることは非常に重大だ。ルグィンには、
SFを書くときに使う文鎮が一つある。
それは、イシの石斧で、ルグィンに対するイシの遺産なのだ。
これを見て書くということは、つまり、現代の文明が何に
囲まれているのか、ということに対するルグィンのセンスなのだ。

………

クローバーはトマス・ハックスリー(オルダス・ハックスリーの祖父)
賞を受けた。トマス・ハックスリーは、動物からの進化をずっと
考えて、そのなかに人間を位置付けるのだが、人間の持っている倫理観を、
動物と同じようなもの(弱肉強食世界・攻撃性本能)と同じようなもの
にする必要はないと言っている。これまで人間の編み出してきた倫理に
沿うて、自分の今日と未来を律すればいいという。
日本では加藤弘之が流行らした国家本位の弱肉強食を説く
社会的ダーウィニズム(現代日本の競争至上主義に繋がっている
根の一つ)、これは国家間の関係を動物の弱肉強食の側面になぞらえて
考えた。トマス・ハックスリーはそれにくみしなかった。
社会ダーウィニズムはイギリスでは流行らなかったから
そこで止まって、ドイツに渡り、ドイツから日本に来た。

「宇宙における人間の位置」、それが、トマス・ハックスリーの
エッセイの題なのだが、クローバーはその考えを受け継いでいる。

(鶴見俊輔「イシが伝えてくれたこと」)

イシが、本田透さんに重なった…。そして鶴見さんに…。
鶴見俊輔さんに、
「喪男の哲学史」読んで欲しいな…。
鶴見さんの全集のでた筑摩書房に、「喪男の哲学史」を、
鶴見俊輔さんに読んで欲しい本ですって、一筆書いて送ったら、
担当編集者経由で届くかな…。でも、そんなことしたらご迷惑か…。

「哲学業界は言葉(難解な専門哲学用語・用法)の通じない人間は哲学の
徒にあらずと哲学を志す者を象牙の塔から排斥してゆきダメになって
しまったが、それでも、専門哲学の外にいる哲学者が人類のなかにいる」

ということを、イシと同じく、本田透さんは身を持って証明している、
それは、私にとっても、素晴らしい喜びですね…。

萌えについて語る哲学者には東浩紀先生がいますが、二人の
著書を読んでいて思うのは、全く逆位相なんですね…。
東浩紀先生は、人間性の廃棄、人間が人間らしさを失い倫理を捨てて、
飼い馴らされた獣のように欲望のまま生きることを、不可避と考え、
それを肯定的な流れ(歴史の終わり)として捉えていますが、本田透さんは、
例え僅かな人々でも、人間性を貴んで生きようとする人、より良く生きる
ということを諦めない人々と共に進んでゆくことを、目指している。
東浩紀先生はまさにポストモダン哲学の申し子な訳ですが、
本田透さんの方は逆に、とても古い、古典的な哲学の考え方、
「欲望のまま振舞うのではなく、理念を持って良く生きる」ということを
目指す哲学を志していて、私は、例え世の大勢は変わらないとしても、
本田透さんのいる哲学の潮流を志したいと思います――。

参考図書(amazon)
鶴見俊輔「鶴見俊輔集続5 アメノウズメ伝」(イシが伝えてくれたこと)

「鶴見俊輔著作一覧」

シオドーラ・クローバー「イシ」

アーシュラ・K・ルグィン「ゲド戦記」

本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

エピクテートス先生、キモメンが悩みです!! −古代喪男伝−

荒井献「トマスによる福音書」  本田透「喪男の哲学史」

エピクテートスにとっては、身はいやしくも常に王者の
ような心のゆとりがあった。彼は我々の力(意志)のなかに
あるものと、力のなかにないものをよく心得ていた。………
エピクテートスはずっと独身であった。それは足が不自由な
故であったか、それとも貧乏な故であったかはわからない。

(鹿之治助「エピクテートス」)

ストア哲学者エピクテートスの著作を最近読んでいるんですが、

…やべえ…面白すぎる…。

哲学書読んでいてこんなに大爆笑したの初めてだよ…(^^)

特にキモメン哲学徒からの「自分のキモメンが悩みです」という
相談に答えるエピクテートス先生(キモメン)が…感動的大爆笑…。
以下、エピクテートス「語録」より。本文中の「毛」とは男性の醜さ
と解釈すると分かり易いです。女性はすべすべと美しい=毛がない。

エピクテートス先生
「きみは男か、それとも女か」

キモメン哲学徒
「男です」

エピクテートス先生
「それでは男らしく(自分の醜さに気を使わずに)しているがいい。
女は本性上、すべすべとして柔らかくできている(=本来的に美しい)。

………

ねえ君、君は君の本性(男=女性より美に劣る存在に生まれたこと)
に対して、何か苦情があるか。君が男に生まれたことが?すると、
どういうことになるのかね。(男の醜さに苦しむということは)
みんなが女に生まれるべきだったとでもいうのか。………
男であることが、君の気にいらないのか。それならば
徹底徹尾そうしたらどうか。その…なんといったらいいか…
毛の原因であるもの(金玉)を取ってしまうがいいではないか。
そして徹底して君自身を女とするがよかろう。………
君はいったい誰に好かれたいと考えているのか。
女の子たちのか、それなら男として(外見以外で)
彼女らの気にいられるようにすればいい」

キモメン哲学徒
「でも彼女たちはすべすべした者(イケメン)が好きです」

エピクテートス先生
「首をくくって死んでしまえ!!
女の子たちが男めかけを喜べば、お前は男めかけになるのか。
それがお前の役目か、お前は放縦な女の子たちに好かれるために、
生まれてきたというのか。お前のような奴を、わしどもが
コリントスの市民にするだろうか、それともまかりまちがって、
巡査とか、監督官とか、将軍とか、試合の審判とかにするだろうか。
君は結婚したら、(自分の)毛を毟り取ろうとするのか。
だれのために、そして、なんのために。それから、
君が子供をもうけたら、その毛を毟り取って、わしどもの
市民のなかに入れるのか。さぞ立派な市民であり、元老であり、
演説家であろうな。(※当然ながらこの文は皮肉)
このような青年が生まれ、そして、育てられるように
わしどもは祈らねばならんのか。そうではあるまい。………

君は肉や髪の毛ではなく(外見ではなく)、意志(魂)なのだ。
もし君が意志を美しく保つなら、(外見はどうあれ)君は美しい。
………ソクラテス(超グロメンで有名)は、すべてのなかで
一番美しい、一番美青年のアルキビアデス(ギリシアの名だたる
超イケメン。ソクラテスを慕った)について、何と言ったか。
『(魂が)美しくあるように努力したまえ』
ソクラテスは彼にどういうことをいったか。『君の髪の毛を
撫で付け、足から毛を毟り取れ』ということか。全く違う。
『君の意志を磨き、下らぬ考えを取り去れ』と言ったのだ」

キモメン哲学徒
「それでは、僕のキモメンはどうすればいいのでしょうか」

エピクテートス先生
「本来あるようにすればいい。それらは神がお心にかけて
くださったのだ。神(不可避の運命)におまかせすればいい」

キモメン哲学徒
「それはどういうことでしょうか。それは(身体を洗わず
に放置して)不潔にしてていいということですか」

エピクテートス先生
「そんなことはない。君が(苦しまずに自然に)あるように、
本来としてあるように、きれいにしていればいい。………
鶏は鶏として、ライオンはライオンとして、また猟犬は猟犬として
きれいでなくてはならないのだ」(※動物の外見がそれぞれで
あるように、人の外見もまたそれぞれであり、女のように美しい
イケメンでないことに苦しみ続けるのではなく、キモメンである
自分自身を大切にしろとエピクテートスは説いている)

(エピクテートス「語録」)

ああ…。二千年前も今と悩み苦しみは変わらないんだなあ…。

そして古代が羨ましい…。現代日本の哲学科で哲学教授に教え子が
「僕は自分のキモメンが苦しいです」って対話を始めたら、
教授「はぁ?お前何言ってんの。そんな下らないこと言ってる
と研究室から追い出すぞ」となるのが、目に見えていますよ…。
古代のフィロソフィーの自由で闊達な対話、本当に憧れるな…。
現代の講壇哲学は細分化していて、自由な対話は不可能ですから…。

ちなみにエピクテートスは、元奴隷であり、彼の主人のエパプロディトス
が非常に悪名高い男で、奴隷のエピクテートスを苦しませて屈服させる
ためだけに、彼を拷問にかけ、足を捻り折ったりなどしましたが、それでも
彼はその苦しみに耐えぬき、主人のエパプロディトスに屈さなかった。
拷問の影響で、その後、足が不自由に…。また、彼は一生独身でした。
彼は筋金入りの強靭な精神を持った漢です。奴隷として非常に苦しい悲惨な
人生を送りましたが、それを耐え抜き、良く生きる、正しく生きることを
目指した人です。先に紹介したところはエピクテートスのユーモアが溢れて
いる個所ですが、他のところとかも読んでいると、ほんと、良いですよ…。

苦しい運命に生まれた。避けられない苦難がたびたび襲い掛かる。
それでも、正しく生きる、良く生きるという自分の意志を貫き通すことは、
誰にも負けない、外的な状況は苦難を与えるが、魂が挫けない限り、誰にも
自分自身の魂を犯すことはできないのだ、正しく、良く生きる魂の意志は、
世界の誰にも崩せない牙城なのだということを、物凄く、深く感じさせる…。

こういう人がいたということが、物凄く感動ですね…。
彼は主人が死んで奴隷から解放された後も、吹きさらしの家に
住んで、死ぬまで身を律し、哲学を求めるものに教えを説きました。
(彼は貧しく、足も悪くてあまり動けず、遺産はランプしかなかった…)
本田透さんの次の文章を思い出した…。そして、トマス福音書を…。

この本(喪男の哲学史)を振り返ってもらえればわかるように、
人類史に偉大な足跡を残してきた知性の持ち主は、だいたいが
たいていが喪男、それも「孤立した喪男」だったのです。

(本田透「喪男の哲学史」)

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。
なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。
なぜなら、あなた方がそこから(来て)いるのならば、
再びそこに行くであろうから」(四九)

………

(グノーシス派の重要文献である)トマス福音書の鍵言葉の
一つに、「単独者」なる表現がある。この表現には二つの意味が
込められているようである。その一つは血縁的同族関係から
おのが身を断ち切って、「一人で立つ者」つまり自立者の意である。

………

注意すべきは、人間が「自己」を覚知し、「単独者」として「御国」
に入るのは、ほとんどすべての語録において未来の時に約束されて
いることである。………――「だからあなたがたは、この世を前に
して目を覚ましていなさい」(二一。一〇三も参照)我々はここに、
トマス福音書にもイエスによる弟子批判の言葉(二六、四三、五一、
九一)が収録される余地が残されていると想定する。これは
グノーシス派には「自己批判」(自らの叡智にうぬぼれることなく
自らの身を律し続けよ的批判)を迫る言葉として機能するであろう。

………

いずれにしても、グノーシス主義者は「本性によって救われる者」
と称し、人倫を踏みにじり、放埓に耽っているという、正統的教会の
反異端論者の対グノーシス批判は、少なくともトマス福音書をはじめ
とする「ナグ・ハマディ写本」所収のグノーシス文書には当たらない。

………

それにしても、覚知者が「自己」の全的統合(叡智)を目指して
歩むべき道は、狭く、厳しく、そして遠い。彼らはイエスとともに
「単独者」として立ち、時の権力をも「神」(デミウルゴス)をも
相対化して生きようとすれば、必然的に国家(ローマ帝国)をも
宗教(正統的キリスト教)をも敵にまわし、二重の迫害の下で
苦しみに耐えなければならない。(トマス福音書成立当時の歴史的
状況については三八ページ参照)このような状況の中で孤立する
人々にとっては、次のイエスの言葉は大いなる恵みと慰めとなろう。

イエスが言った、「あなたがたは憎まれ、迫害されるならば、
あなたがたは幸いである。そしてあなたがたが迫害された場は
見出されないであろう」(六八)

イエスが言った、「心のなかで迫害された人たちは、幸いである。
彼らは、父を真実に知った人たちである」(六九)

イエスが言った、「苦しんだ者は、幸いである。彼は命を見出した」(五八)

(荒井献「トマスによる福音書」)

デカルト、カント、パスカル、ヒルティなど、後世の哲学者もエピクテートスを
古代哲学者の模範と考えているけれど、物凄く、良く分かる、実感する…。

デカルトはこれ(エピクテートスの哲学)をすみずみまで知りぬいていて、
彼の倫理学的考察の一部は、運命よりもむしろ自分に打ち勝ち、世界の
秩序よりもむしろ自分の欲望を変革しようとつとめるべきことを彼に
教えた(エピクテートスの)作品から直接移植されたようにみえる。
というのは、これこそ「幸福の国を去り、苦悩や貧困にも関わらず、彼らの
神々と幸福を競いえた昔の哲学者達の秘密」(方法序説)であったから。

………

カントがストア学徒について語るときはたいていの場合エピクテートス
を指しているようで、彼らを批判しながらも洞察力を褒め、
かつ「このような大昔に、哲学的制覇のために、考えられる
あらゆる手だてを試みたのだから」として彼らに感服している。

エピクテートスは心の自由と理性への服従を説く。いかなる人間も
自分の左右しうるもの、すなわち、見解、身のこなし、欲望、愛憎
などにもっぱら心をかたむけるべきで、我々の左右できないものに
ついては、それを止めることもおさえることもできず、我々は
到来すれば受けるべく、欲望によってその到来を願うべきではない。
(※我々の意志ではどうにもならないこと、例えば宝くじが当らない
から苦しむみたいな、そういう意志では全くどうしようもないことを
願ったりして苦しむのは、自らの魂にとって良くないという考え方)

(ジャン・ブラン「ストア哲学」)

最後に、私が凄く心打たれたところをご紹介。

もし君が哲学を志すならば、笑いものにされたり、多くの人に
からかわれたり、また彼らから、「あいつは突然、哲学者に
なりすまして私達のところに帰ってきた」とか「どこから
あいつは、私達のところに高慢ちきな顔をぶらさげてきたのか」
などと(人と違うということでボロクソに)言われることを、
即座に覚悟していなければならない。だが、君は(ボロクソに
言われても)決して、高慢ちきな顔をしてはいけない。
君にとって、一番良いと思われることについては、神からその場へ
配置されたのように(=高慢にならずに誠実に)持するがいい。
もし君がその態度(哲学的な誠実)を保つならば、前に君を
笑いものにしていた人々は、いずれ君に驚嘆するようになるだろう。
そして、もし君が彼らに負ける(道を踏み外す)ならば、
二重に笑われることになるだろうということを、覚えておこう。

(エピクテートス「要録」)

…拷問にも負けなかった人が云うと、説得力ありまくりだ…。

後、エピクテートスの本は悉く絶版で本屋にもamazonにも
全然ないので、(amazonに古書でてるけど凄く高い…)
よければ古本屋とか図書館とかで探してみてください。
私は中公バックスの世界の名著14で読んだのですが、amazonにはない…。
なんでこんな面白い良い本が絶版なんだろう…。

参考図書(amazon)
荒井献「トマスによる福音書」

本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

エピクテートス「人生談義 上巻」

エピクテートス「人生談義 下巻」

エピクテートス、他「世界の名著13」

ジャン・ブラン「ストア哲学」

デカルト「方法序説」

パスカル「パンセ」

カント「実践理性批判」

ヒルティ「幸福論 第一部」

ヒルティ「幸福論 第二部」

ヒルティ「幸福論 第三部」

ヒルティ「眠られぬ夜のために 第一部」

ヒルティ「眠られぬ夜のために 第二部」

ダンディズムの精神 −喪男・ストア哲学・ダンディズム−

「デスパレートな妻たちDVDBOX1」  セネカ「モラル通信」  本田透「喪男の哲学史」

I suppose it's a bit too early for a gimlet.
(Raymond Chandler)

私が毎回見ているTVドラマに「デスパレートな妻たち」が
あるんですが、
今回(第十六話)も面白かったな…。

ヒロインの一人、スーザンはロンというお医者さんと付き合っているん
ですが、このロン先生、凄くいい人なんですよ。若いお医者さんでハンサム
で、なおかつ内面も真面目で、病気の人を助けたいという医者の理念を持って
いて、女性には優しくて、紳士的で、そして詩情溢れる詩人な人…そして喪男…。
私にとって凄く好きな男性キャラなんだけど、今回の話で…。

スーザン「ロン先生、凄くいい人なの。だから別れようと思うんだ」
リネット(スーザンの友達、ヒロインの一人)「ハァ?」
スーザン「ロン先生は、付き合うのに全てを兼ね備えているんだけど、
だけど、肝心の『ビビッとくるもの』がないの」
リネット「そっかあ。じゃあ別れたら」
スーザン「でも、迷ってるの。なんていうか…、この『ビビッとくるもの』
のおかげでいつも失敗しているし。(スーザンが前に付き合っていた
カールとマイクはどっちもDQN要素多め。カールは女誑しの浮気魔で
マイクは人間としてはいい人だけど、、、訳ありの殺人の前歴あり)
だから、なんていうか、こう、『ビビッとくるもの』がなくても、
長い付き合いのなかでおだやかに、愛を育んでいくのもいいのかなと」
リネット「でも、肝心なのは、『ビビッとくるもの』よね」
スーザン「………」(ニヤリ)

(デスパレートな妻たち)

………。
肝心なのは、『ビビッとくるもの』か…。

でも、それ(ビビッとくるもの)、努力とかではどうしようもないよね…。
ロン先生、一生懸命頑張ってるし…。元々、スーザンの方からロン先生に
アプローチかけて、真面目なロン先生をスーザンが虜にしたのに、
今回の話で、スーザンとのこと真面目に考えていて結婚したいと
思っているロン先生にとって一番ショッキングな振られ方するし…。
私はロン先生に共感してみていたので、悲しみを禁じえない…。
ロン先生はイケメンだけど、真面目すぎてモテないタイプで、スーザンからの
セックスの誘惑に「僕は医者だから、君が好きだけど、医者の倫理として
君が患者である間は手を出さない」って宣言してスーザンに呆れられたり、
自分の気持ちを書いた愛の詩を渡して、ロマンチック過ぎるってバカにされ、
DQNな浮気魔で女誑しのスーザンの前夫から嘲笑されたり…あれ…涙が…(ToT)

私はロン先生のようなお金持ちでもお医者さんでもイケメンでもないけど、
ただ、ロン先生と同じく、頑張っても頑張っても振られてしまう役柄の
側にいつもいる方だな…。
世界の永遠の脇役の側…。…四諦だ…四諦…。

俺は色男となって、美辞麗句がもてはやされる
この世のなかを楽しく泳ぎまわることなどできはせぬ。

(シェイクスピア「リチャード三世」)

シェイクスピアの「コリオレイナス」楽しみだなあ…。
お金ないからB席だし、当然一人で見に行くんだけどね…アハハ…。

幽人の清事は、すべて自適にあり。
故に、酒は勧めざるを以って歓と為し、
棋は争わざるを以って勝と為す。
笛は無腔を以って適と為し、
琴は無絃をもって高と為す。
会は期約せざるを以って真率と為し、
客は迎送せざるを以って坦夷と為す。
若し一たび文に牽かれ迹に泥まば、
すなわち塵世の苦海に落ちん。

(洪自誠「菜根譚」)

菜根譚を読むと心が安らぐな…。
洪自誠の生き様からの糧を感じるよ…。

菜根譚の著者洪自誠は、こうした明末の内政混乱の真最中に生きた儒者で、
しかも圧迫を受けた東林学派の人と見られ、こうした明末の世相と洪自誠の
境遇をあわせ勘案して菜根譚を読み返すと、単なる処世訓と見られる条々も、
きわめて現実味を帯びた様相を呈してくる。たとえば

道徳に棲守する者は、一時に寂寞たるも、
権勢に依阿する者は、万古に凄凉たり。
達人は物外の物を観じ、身後の身を思う。
寧ろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄凉を取ることなかれ。

という語調には、孤高のなかに理を貫こうとする
東林学派の心意気を見る思いがする。

(「菜根譚」解説より)

東林学派は主知と道徳を重んじて、世相や権力に阿ることをよしとせず、
結果、時の権力から弾圧された学派で…ストア哲学に似ているものを感じるな…。
ストアの流れで主知と道徳を重んじたまま、自然観がひっくり返るとグノーシスに…。
みな、世界のなかで疎外される人間はいかに生くるべきかを、主題としている…。

ストア派の三段論法を提起したい。あらゆる幸福の条件を満たすものだ。
「善良なものは人間を善良にする。良い音楽は良い演奏家をつくる。
しかし偶然によって得たものは、人間を善良にしない。
ゆえにそれらは善ではない」

………

(ストア哲学は物質的資産所有者と徳を結びつけることに反対してこう云う)
「下劣な人間の手に入るものは善ではありえない。
売春斡旋者、剣闘士の紹介者(=奴隷商人)に物質的資産は偶然転がり込む。
ゆえに物質的財産は善でない」

………

徳が高貴な精神を育て上げ、人間を俗世間の価値観を超えた存在に高める。………
ケリドン。クレオパトラの愛人の一人だ。彼は巨額の富を所有していた。………
いったい裕福さが彼を下劣にしたのだろうか。それとも彼の方が金銭を汚らしく
したのだろうか。ある種のひと(悪徳の人)の手のなかにころがりこんだ金銭は、
下水溜めのなかに落ちた小銭のようになってしまうのだ。

徳はこのような偶然の授かりものを超えたところにそびえ立つ。そして
自らの価値を自らの内部から引き出す。偶然によって齎された利益など、
徳にとって善とはならない。………偶然によっては齎されないものを
所有している者は、決して俗世間の価値観でいうところの「幸運」に
依存する者ではない。自分の持っている善に応じて、人間の価値は決まるのだ。

………

大富豪達、かれらは資産のアクセサリーにしか過ぎないのである。
そしてただ資産においてのみ、世間から価値を算定されているのである。

では、賢者の偉大さとはどこに由来するのか。自らが所有する
魂の偉大さである。結論としていえることは、下劣な人間の手元に
転がり込んだものは、善とはなりえないとは真実だということだ。

(セネカ「ルキリウスへの手紙/モラル通信」)

ストア哲学の特徴…主知と道徳に基づく偶然(=非徳的な現象)の否定。
さっきの『ビビッとくるもの』みたいなものが、偶然です…。ストア哲学…(^^)
ストア哲学はダンディズムの哲学に繋がっておりますが、それは双方の
哲学とも非徳的な偶然性、偶発性に寄り掛かることでしか存在できない
「俗世間の幸福」を否定し、良き魂のあり方(精神性)を重視するからです。

ロン先生、振られた直後も、それはそれと置いて、医者としての仕事を
気を取り直してきちんと行う…、その姿に凄く、ダンディズムを感じたな…。

これはある意味、大乗の道です。
彼ら「孤立した喪男哲学者」たちは、
己の苦悩を糧にして多数を癒そうとしたわけです。
文化の歴史は、喪男の歴史なのです。
モテない者は幸いであり、広大な二次元は彼らのものなのです。
喪男は幸いであり、真の「現実」は彼らのものなのです。
魂に傷を負った者だけが、新しい何かを生み出すことができるのです。

(本田透「喪男の哲学史」)

If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle,
I wouldn't deserve to be alive.

(Raymond Chandler)

参考作品(amazon)
本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

「デスパレートな妻たちDVDBOX シーズン1」

セネカ「ルキリウスへの手紙/モラル通信」

洪自誠「菜根譚」

シェイクスピア「リチャード三世」

シェイクスピア「コリオレーナス」

レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」

レイモンド・チャンドラー「プレイバック」

A・シャステル「ルネサンス精神の深層」 −オタクの星辰−

しろはた(公式サイト) 本田透「喪男の哲学史」 A・シャステル「ルネサンス精神の深層」

プラトンが詩と名づけるものは、卑俗な音楽のように言葉の快さに
よって耳を魅惑するだけのものではない。それは至高至聖の秘奥の儀を
言葉に変換し、神々の聖餅をもって人の精神を養うものである。人はこの
聖なる狂気を、技芸の女神たるムーサイからも招来しようと欲したのである。

(ランディーノ「神曲」)

A・シャステル「ルネサンス精神の深層 フィチーノと芸術」を読了。
素晴らしく面白かったよ。いやあ、なんというか、フィチーノが
本田透さんに、ルネサンスがオタク文化にどうしても重なって見えて(^^)

本著は、ルネサンスを代表する偉大な哲学者、マルシリオ・フィチーノを
主軸に、ルネサンスにおけるネオ・プラトニズム、ヘルメス主義の流れを
辿ってゆきます。いやあ、本田透さんの学説に非常に近しいものを感じました。
フィチーノのイデア重視、現実を離れた超越的な至高の愛と美の理念を重視し、
理念を表すものは、芸術(本田透さん風に云うなら二次元)であるという二元的な
哲学観は、私にとっても我が意を得たり(^^)と心から思えるものでありますね。

特に面白いなと思ったのは、フィチーノが星辰サトゥルヌス(土星)の魂を
持つものとして、自らを、そしてネオ・プラトニスト、ヘルメス主義者、芸術を
愛する者達を見ている視点で、「喪男の哲学史」を彷彿とさせるものを感じたよ…。

(フィチーノによれば)星辰界と天球の秩序は「われらの内なる現実」
の可視的投影だからである。………フィチーノはこの問題を要約して
次のように言う――「観天を為しつつ、己が大事の解決を計らんとせば、
天を超ゆる存在とならんこと疑ひなかるべし」

人間は自然の法則と感応力の網の目に捕らえられていて、その最も明確な
力は星辰から発するものである。その力(現世的な力)に順応するのが、
人間として賢明な道である。それから(プラトニストやヘルメス主義者
のように)逃れるには、この地上の世界の幻想性を開示する、意識と存在の
至高の領域における完全な転換による以外にない。しかしこの自己超越は
常に繰り返されねばならない。人間は自己の希求するほどの高みには、
決して到達することができないからである。ここに人間の条件の劇的
(悲劇的)性格がある。霊魂は囚人であり、それを閉じ込めている質料は
ヘルメス主義者が語る暗い牢獄であり、肉体はプラトン主義者にとっては
一種の墳墓ではなかっただろうか。異教もキリスト教も、悪夢の苦しみや
囚われの身の息苦しさを描き出して、この悪のイメージの表現の宝庫を
提供している。ミケランジェロの「奴隷の苦しみ」の状態の説明としても
用いられた1840年の書簡で、フィチーノは例えば次のように述べている
――「肉体の生活は、魂にとって悪夢と苦悩を与える病気である。
我らの運動、行為、情熱は、病気、悪夢、狂気の錯乱の幻影に過ぎない」

………

新しい人文主義においては、悲劇的感情は悪と罪の恐怖感を伴ってではなく、
存在の幻影的な局面の発見、人間の内面における倦怠感と無力感の恐怖を
伴って現れた。このことを最も痛切に感じるのは、土星であるサトゥルヌス
の影響を受ける人々である。中心から最も遠く、その回転において最も緩慢な
この惑星は、当然ながら地上の生活(現世的な生活)には敵対的である。
この星は通常の生活には好意を持たず、平衡を乱し、最も零落したものたちの
住む最下層に転落するか、観照の至高の位階へ飛翔するか、いずれかを強いる。
と言うのは、この星こそまさに占星術の星、すなわち知の星であるからだ。
それは人間の条件の四区分を維持不可能にする。それは分極(extremitas)
の霊である――「神か禽獣か、至福か悲惨かの」。これはまた換言すれば、
叡智の支配者、純粋精神の原理たるサトゥルヌスは、ゼウスに属しその嘉する
ところの世界霊魂の領域を、当然のことだが破壊しようとするものなのである。

フィチーノはこの神話的対立の図式を大いに利用した。不穏な精神として
神経質で、心に憂悶を抱きやすい(ルネサンス)世代を代表する文筆家として、
彼は百科事典が「苦渋」(acedia)の名で呼ぶ苦悩の感情、精神的人間の病、
憂鬱症、ペトラルカが大いなるテーマとした夢想と故なき苦悩への傾向などに
対して、新しい意義(現実世界を超える理念世界への飛翔)を付与した。
これは彼が知悉している苦悩の感情だった。………サトゥルヌスの
苦患(現実に対して常に不完全感がある憂鬱、理念への欲求)は通常の
病気ではない。それは上なる世界(理念世界)からの召命の徴である。
サトゥルヌス気質は観照にふさわしい気質である。

………

サトゥルヌスの病に対する唯一の根本的な治療は、フィチーノがしばしば描写し、
驚くべき正確さで記述している、至高の要求に対する帰依、昇華なのである。

『………人々はサトゥルヌスの不吉な力を、木星たるゼウスに
訴えるだけでなく、まさしくサトゥルヌスそのものたる神格の観照を、
全身全霊をもって行うことにより、恵み豊かなものにかえることができる。
カルデア人、エジプト人、プラトン主義者達はかくの如くして、
運命の悪意を逸らすことができると信じている』

それゆえに憂鬱気質の精神的苦しみを回避するのは、ひとえに精神的努力による。
救いは「聖なる狂気」、プラトン的狂気より来る。(愛と美の理念的な)熱狂は、
「苦渋」の抑圧状態において魂を侵す混沌と闇の魔力から人を引き離す。
憂鬱症はそれゆえに、ある意味では、夢と恋の情熱がその第二階梯たる
「特権的状態」(至高の観照)へ接近するために、心理的に不可欠なものである。
それは観照の条件である。このようにしてフィチーノの世界は、ヘルメスの知と
サトゥルヌスに示される透視者の才を備えた、魔術師達の住み着く世界となった。
宇宙はこれらのものにとって、輝ける奇蹟たることをやめないのである。

(A・シャステル「ルネサンス精神の深層」)

素晴らしい…。歴史的二次元を感じるね…。歴史を超える二次元を…。

それ(プルーストの病)は、ヒポコンデリーな気苦労としてではなく、
レアリテ・ヌーヴェル(新しい現実)として現れた。………
――プルーストの場合のような、世の成り行きと個人の生活との非常に
深い絡み合いは、もしその基盤が、この実に深い、たえまない病以外の
ものであったなら、必ずやある卑俗で怠惰な満足感へ通じることに
なったであろう。ところがこの病は、願望も後悔ももたないある種の
フーロア(狂乱)から、あの偉大な創作過程における自分の位置を指定
される定めになっていた。ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の天井に
<天地創造>を描く際、組みあげられた足場の上に乗り、頭を後ろに
そらして製作した。そうした足場が、ここに再び聳え立ったのだ。
この場合それは病床であり、その上でプルーストは、宙に支え持って
自分の筆跡で埋めた無数の紙を、彼のミクロコスモスの創造に捧げたのである。

(ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション エッセイの思想」)

哲学の歴史は喪男の苦しみの歴史であり、
「二次元」追求の歴史でもあるのです。
秋葉原には、オタクには、このような数千年にわたる
人類の営みというバックボーンがあったんです。

………

文化の歴史は、喪男の歴史なのです。
モテない者は幸いであり、真の「現実」は彼らのものなのです。
魂に傷を負った者だけが、新しい何かを生み出すことができるのです。
喪のエネルギーを、想像力に変換して。
天国は、脳内にあり。

だから、すべての喪男よ、孤立せよっ!

苦しみを超えて歓喜に至れ(ベートーベン)。

(本田透「喪男の哲学史」)

イエスが言った、「もしあなたがたを導く者があなたがたに、
『見よ、御国は天にある』と言うならば、天の鳥があなたがた
よりも先に(御国へ)来るであろう。彼らがあなたがたに
『それは海にある』と言うならば、魚はあなたがたよりも先に
(御国へ)来るであろう。そうではなくて、御国は、
あなたがたの只中にある。そして、それはあなたがたの
外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、
そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、
あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らで
あることを。しかし、あなたがたがあなたがた自身を知らないなら、
あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である」

(荒井献「トマスによる福音書」)

参考図書(amazon)
A・シャステル「ルネサンス精神の深層」

本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

荒井献「トマスによる福音書」

クリバンスキー、他「土星とメランコリー」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 近代の意味」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション エッセイの思想」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 記憶への旅」

ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源 上巻」

ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源 下巻」

ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」 もう一つのメランコリー

ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」

外観の無頓着さ――これは典型的にメランコリー的である――
(ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」)

先日読んだ「ルネサンス精神の深層」とも関わりを強く持つ著書
ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」読了。
デューラーのメレンコリアTを哲学的観点から徹底的に考察する
美術哲学書で、マニアックな本ですが、私的には非常に面白かったな。
デューラーの描くメランコリックな人物はどう見てもオタクですし(爆)

デューラーと云えばメランコリー、メランコリーと云えばデューラーですが、
ハルトムート・ベーメはデューラーにメランコリーの大家フィチーノとの
対称性を見出しており、極めて興味深い。フィチーノのメランコリーは、
プラトン主義的・実存的・形而上学的ですが、ベーメはそれと対照となるメランコリー、
自然科学的・技術的・唯物的なメランコリーをデューラーに見出しており、両者とも
通じ合うもの(主知的憂鬱)を持ちながら、対照的な方向に飛翔していると考える。
実に面白い。フィチーノ以上にペシミスティックな哲学的模索としてデューラーの
絵(メランコリア)を考察してゆく試みの手並みは、見事としか云いようがありません(^^)

そこに表現されているのは、現世の辛い悲しみに耐えて、
時の過ぎ行くなかで何事かを測定している醒めた眼差しである。
これらは醒めた思考と秩序形成という能力を表わしている。

………

絵のなかに見えるすべてのものから切り離されたメランコリアの
眼差しは、思考そのものの象徴なのである。この絵に見えるものは
すべて――考えられたものとして――この眼差しにとりこまれる。

この銅版画(メランコリア)は思考の絵であり、それは一つの逆説である。
というのは、思考とは見ることではないからである。まさしくこの眼差しは
見ることではなく、思考を表わしているがゆえに何も見ていないのである。
さらに厳密にはこの銅版画は意識の瞬間をつかんで離さない思考の絵なのである。
これはだから途方もないもの――まったく描写などできないもの(純粋精神)の
描写なのである。哲学のテーマや能力を表すだけでなく、哲学が担うもの、
つまり熟考と意識を表現する絵は美術史上、この作品以外にはない。

………

デューラーはサトゥルヌス的天才の新しい解釈を展開しているのである。
すなわち、目覚めている力と問題の射程に新たな尊厳に満ちたものが
現れてくるのである。この新たな尊厳は、人間が優れた力に関与して、
特権的地位を得ることに存在するのではない。それは象徴に満ちた世界を
考え抜く中で、自らを有限な意識を持った主体として気づき、
限界を知って可能なものを創造するということに存在するのである。

(ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」)

参考図書(amazon)
ハルトムート・ベーメ「デューラー メレンコリアT」

A・シャステル「ルネサンス精神の深層」

歌劇「スペードの女王」 −キモメン喪男の愛と破滅−

歌劇「スペードの女王」   プーシキン「スペードの女王・ベールキン物語」

人間を取り巻く事物の世界は、ますます仮借なく商品の姿をとってゆく。
(ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 近代の意味」)

(金の魔力は)見ていると胸糞が悪くなるが…
思わず引き寄せられてしまうのだ。

(ゲルマン。歌劇「スペードの女王」)

NHK衛星第二で放映していたチャイコフスキー歌劇「スペードの女王」
視聴――ブラボー!!見事な歌劇、至福の三時間であったよ!!(^^)

本歌劇は、貧しいキモメン喪男の青年士官ゲルマンを主人公にした、
まさに「キモメン喪男の愛と破滅」と呼ぶに相応しい一大喪男スペクタクル。

本歌劇において貧しいキモメン喪男の青年士官ゲルマンは、貧しくも
堅実だが満たされない日々を送っています。彼は、魔術師サン・ジェルマンから
賭博の魔術秘儀を習った恐るべき魔法使いにして大富豪の老伯爵夫人の
孫娘、リーザを深く愛しているのですが、身分(貧富)の違いから、彼女に
愛を打ち明けられないのです。リーザは本当に素晴らしい乙女、ゲーテの
「ファウスト」のグレートヒェンの流れを継ぐ、清純無垢で心底から優しい、
魂の清らかな美しい娘さん、現代においては、エロゲの中にしかおられない
ようなとても素敵な娘さんです。そんなリーザに喪男ゲルマンは恋している。

ですが、リーザが金持ちのイケメンモテ男である公爵と婚約したと聞き、
ゲルマンの愛の炎は燃え上がります。一念発起、ゲルマンは勇気を出して
リーザに愛を打ち明けます。元々婚約自体、リーザの周囲が勝手に決めた
ことであって、実はリーザも、情熱的な想いを持ったゲルマンの方に好意を
抱いていたのでした。両思いとなった二人は幸せに包まれ愛の炎燃え上がる。
リーザの素晴らしいところは、金も地位も名誉も何もかも兼ね備え、そして
イケメンである公爵よりも、貧乏で冴えないキモメン喪男のゲルマンを、
愛したことで…、リーザという女性が、世俗的価値に惑わされない愛情、
真の愛情を持った女性であることが、しっかりと示されてゆきます。

しかし、ゲルマンは貧しいし、リーザは公爵と婚約している。ゲルマンは、
リーザと一緒に遠くに逃げようとして、そのために金を稼ごうと、賭博場に
入り浸ります。リーザは、例え貧しくとも、あなたと二人で暮らすことが
私の幸せよ、一緒になりましょう(金銀財宝よりも〜あなたと一緒の
野原の方がいい)と云いますが、カジノの熱に当てられたゲルマンは、
財貨に眼が眩み、リーザへの愛情をだんだんと、金に売り渡してゆくのです…。

ゲルマンは、カジノの女王である、老伯爵夫人の財貨に魅惑され、夫人の
持つ賭博の魔術秘儀、賭博において必勝の三枚のカードの秘密を知りたいと
欲するようになっていきます。ゲルマンは財貨に魅惑され、だんだんと
愛の情熱や堅実だったころの良心、人間性を失ってゆきます。

ゲルマン
「(金の魔力は)見ていると胸糞が悪くなるが…
思わず引き寄せられてしまうのだ」


そして、ついに破滅が訪れます。ゲルマンと結ばれることを望んだリーザは、
老伯爵夫人と共に住む屋敷の鍵をゲルマンに預け、ゲルマンがリーザの
部屋にやってきて結ばれる時を待ちます。しかし、ゲルマンは、その鍵を
使って、老伯爵夫人の部屋に入り込み、老伯爵夫人を脅し宥めすかして、
三枚のカードの秘密を知ろうとします。身体の弱っていた老伯爵夫人は、
ゲルマンからの尋問によるショックの余り、死んでしまいます…、そして、
そこをリーザが見つける。ゲルマンがリーザではなく、金を選んだ現場を…。

リーザ
「私ではなく、三枚のカードだったの。カードが目的だったの。
おお、神様、あなたを心底から愛していたのに!!」


リーザは祖母の死と愛するゲルマンに裏切られた心労のあまり、すっかり
衰弱してしまいます。それでもリーザは、ゲルマンを信じようとする。
あの人は、偶然(祖母の死にでくわしただけ)の犠牲者だ、あの人は、
罪を冒すような人じゃない、と…、見ているこっちまで悲しくなってきます…。

しかし、ゲルマンは、金の魔力に憑かれ、人間としてすっかり駄目に
なってしまいました…。ゲルマンの夢に老伯爵夫人の亡霊が現れ、こう
云います。「もしリーザと結婚して彼女を幸せにするならお前を赦す。
お前に知りたがっていたカードの秘密を教えよう、それは3、7、1だ」と。

夢のお告げを聞き、歓喜しているゲルマンの元に、リーザがやってきます。
心身ともに疲労の極に達しながらも、ゲルマンを気遣うリーザにゲルマンは
冷たくあたり、自分が老伯爵夫人を尋問したことで夫人が死んだことを
リーザに明かし、リーザを更なる絶望のどん底に陥れます。それでも、
ゲルマンを愛し、彼を金の魔力の迷妄から解き放とうと努力するリーザに、
ゲルマンは最悪な態度を取る…救えねえ…金の亡者は本当に救えねえ…。

ゲルマン
「さあ行こう!!」

リーザ
「どこに行くの?」

ゲルマン
「(うきうきとした様子で)賭博場さ!!」

リーザ
「(驚愕して)ゲルマン、一体どうしたというの?」

ゲルマン
「そこには黄金が一杯あって、それはみんな(三枚の
カードの秘密を手に入れた)俺のものなんだ!」

(金の魔力に眼が眩んだゲルマンを必死で押し止めるリーザ)

リーザ
「(老伯爵夫人を死に至らしめた挙句、魔術で賭博をしようだなんて)
あなたの命が奪われてしまうことになるわ、やめてゲルマン!
一緒に逃げましょう、私がきっとあなたを助けるわ!」


リーザたん…マジ泣けてくる…。リーザは、例え貧しい生活であっても、
ゲルマンと二人、一緒に暮らしたいってずっと云っているんですね。
元々、ゲルマンが金を儲けようとした理由だって、愛するリーザと
一緒に幸せになりたいからって理由だったのに…。ゲルマンはそれを忘れ、
財貨の魔力に憑りつかれた金の亡者と成り果てて、ただただ金を求めて、
愛を破壊してゆく…。この後、リーザにゲルマンが取る態度は最悪です。
…ゲルマン…もはや何もかも、人間として完全に終わっているとしか…。

ゲルマン
「(リーザに向かって)お前は誰だ!お前のことなぞ知るか!!
俺の前からさっさと消え失せろ!!」

(リーザを振り払い、賭博場に向かうゲルマン。倒れ伏すリーザ)

リーザ
「ああ、あの人が、破滅に向かってゆく…」


…リーザたん…(ToT)。ゲルマン救えねえよ…。そして、ゲルマンは狂気としか
云い様のない無謀な賭博に挑み、三枚のカードの秘密を使って連勝します。
そして、ゲルマンは堀江貴文氏風に変貌し「この世は金が全てだ、善悪なんてない、
貧しい奴、不運な奴は泣かせとけ、金が全てだ、金が全てだ、金かねカネ!!」

みたいな、もう、堀江貴文氏そのもののような演説を賭博場で行いまくります…。
金の魔力で人格が荒廃して、人間としてもう完全に終わっている…。救えねえ…。

ゲルマン
「善悪なんて世迷言、不運な奴は泣かせとけ!
あたふたせずに、幸運の一瞬を掴むんだ!!
不運な奴は泣かせとけ!」


そして、最期の大勝負、ゲルマンの出したエースの札が、いつのまにか、
スペードの女王に変貌している。驚愕するゲルマン。ゲルマンは賭博に負け、
一切の全てを失ったことを悟り、絶望と悔恨の中で発狂し、そこにはいない幻影の
リーザを見、幻影のリーザに許しを乞います。そして、舞台の幕が降りてゆく…。

非常に心打たれた歌劇でしたね。それこそ現代の資本主義、堀江貴文氏のような
マネーゲームに狂奔するカジノ資本主義に対する痛烈な風刺としても見えるのが、
真に優れた芸術が持っている時代を超える深い普遍性を感じずにはいられない…。
金銭には「胸糞が悪くなるが、思わず引き寄せられてしまう」、非常に危険な魔力
があり、そういったものの魔力と、その魔力によって人間性、愛情といった、人間の
魂にとって大切なものを失い、荒廃して破滅してゆく人間の様相を見事に描ききった、
極めて優れた歌劇だと思います。こういった芸術は魂の救いだと私は思いますね…。

われらをじたばたさせる糸を握るものは<悪魔>!
忌まわしい物には、手もなく引き寄せられる我ら、
毎日、<地獄>の方へと、一歩ずつ降ってゆく、
悪臭放つ暗闇を、眉もしかめず横切りながら。

(ボードレール「悪の華」)

現代の日本世相では、金の魔力に降ったゲルマンや堀江貴文氏風の言説、
「この世には善も悪もない、ただ金だけが世界の全てだ」のような言説が
持てはやされ、特にネットにおいてはその傾向が強いように感じますが、
私は決してそうは思わないし、寧ろ、上記のような金の力を無批判に肯定
する行いは、ゲルマンのように荒廃してゆく危険な行いだと思っています。

勿論、金がなければ、生活はできません。しかし、そのことと同時に、
金の魔力には、私達の魂を腐敗させる危険性があることをしっかり認識して、
日々を生きてゆくことが大切だと私は、思っています。もし、ゲルマンのように、
金の魔力に屈して人を傷つけたりしたら、リーザたんのような、素晴らしい女性は、
一体そのことをどう思うでしょうか。リーザたんのような女性は、現代の現実世界、
この三次元世界にはいないかもしれない、でも、二次元世界には大勢いるのです。
そういった女性達を悲しませるような行い、自らの魂を腐敗させるような行いは、
例えそれが金の儲かる行為であったとしても、決してやるべきではないのだと、
私はそう信じています。自らの為にも、リーザたんのような、女の子の為にも。

まだ若返りの薬も飲まないうちからファウストが女性美に感じ入るのを
見て、メフィストは女によって大丈夫ファウストの心を捉えられると
確信するのであるが、次の場に現れるグレートヘンといい、第二部の
ヘレナといい、ファウストを捉えることが強ければ強いほど、彼の心は
メフィストから(悪魔から)離れてゆき、遂には永遠の女性の導きで
彼の魂は天国に救いとられることになるのである。

(相良守峯「ファウスト解説」)

私が求めているのは、萌えるに値する精神を、
善と美のイデアを持った女性なのだ。

(本田透「喪男の哲学史」)

グレートヒェン
「天なる父よ、あなたのものである私をお救いくださいまし。
天使たちよ、あなたがた聖なる群れよ、
周りに立って、私をお護りくださいまし。
ハインリヒさん、わたし、あなたが怖いわ」

メフィストフェレス
「女は裁かれた」

声(天上より)
「救われた」

(ゲーテ「ファウスト」)

参考作品(amazon)
歌劇「スペードの女王」

プーシキン「スペードの女王・ベールキン物語」

ゲーテ「ファウスト 第一部」

ゲーテ「ファウスト 第二部」

ボードレール「悪の華」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 近代の意味」

本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

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