人類の末路 −ポスト・ヒューマン−
政治がこれまでとは全く別の意味を持つ時代が、訪れようとしている。
(ニーチェ「力への意志」)
東浩紀先生が、ポスト・ヒューマニティ(人間性の終局後)の権力構造、環境管理型権力
について非常に分かりやすく説明していますが、この問題については私もよく考えていて…
情報アーキテクチャの問題として今回東先生は説明していますが、私はフランシス・フクヤマ
が環境管理型権力について取り上げた時の問題点、バイオ・テクノロジー(生命技術)の
問題として、この問題に焦点を当てて考えていて…、そちらの方から考えて見たいと思います。
東浩紀先生はフクヤマ学派を自らの基本的バックボーンとしていて、「動物化」〜「環境管理型権力」
はフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」〜「人間の終わり」ときちんと対応するようになっていますので、
両者を読み比べることは、純粋にとても面白いばかりか非常に様々な示唆を与えてくれてお勧めです。
非常に簡単に説明します。規律訓練型権力と云うのは、外から強権的なパワーを与えて
人間を従わせる力です。最も代表的なものは警察力などの法的暴力を所有する国家権力。
簡単に云ってしまえば、父権的な力です。これは分かりやすい力です。力の形がはっきり
見えているので、従うにしても、逆らうにしても、自らの主体の外にある権力としての”相手”
がはっきりと分かる。ゆえに、これは必ず、従順とともに反発を生むし、その従順と反発が、
テーゼとアンチ・テーゼの関係として、権力自体をジン・テーゼする、そういったヘーゲル的な
権力機構として考えられてきたものです。これまでの歴史はこの形がずっと支配してきました。
オーウェルの1984年はこの形の権力機構として分かりやすい形を描いている作品ですね。
然し、人間の生体を分析して操作する科学技術が発展した結果、新しい権力の形が生まれた。
新しい権力の形、それが環境管理型権力です。環境管理型権力は、相手を従わせるのではなく、
相手が自ら望む行動を取ることが、社会にとっても優れている行動(社会の生産性を上げる行動)
になるように、人間を創り変えることで、誰もが支配されているとは思わず、皆、自ら楽しんで
生きていると思いながら、その実は権力に全て操作された人々として、人々が生きる社会。
その社会では誰もが幸せで(幸せと感じる様に育てられる環境だから!)、誰もが自由で(本当
は檻の中の自由だけど、檻だとは決して思わない!)、誰もが人生に満足している(そう思うように
操作されている!)、この社会では皆が満足しているので、誰もかも、何も否定せず、歴史は終わる。
ハックスリーの素晴らしい新世界はこの形の権力機構として分かりやすい形を描いている作品ですね。
これは人々が保護されて操作され、そしてそれに満足しきっている権力機構。父権的な外部から
の強制ではなく、母性的な抱きしめられていることが分からないように抱きしめられることで、檻の
中に入れられてしまい、そして自らが檻の中に入っていることも分からなくなる”最後の権力”
環境と薬物と生体科学、その他あらゆる科学が、人間をその人間の自覚なしに操作する世界。
そして、いつしか、自ら操作されることを望む世界。自らが幸せになる為に自ら改変されることを
望む世界。社会科学と精神医学と生命技術が、それを可能にし、人間は人間でなくなってしまう…。
人間が、自らに疑いを持たなくなる、それは福祉国家の究極の完成系として現れます。
不幸な人には副作用ゼロの、人格を快活で愛情深くいつも幸せに溢れさせる薬物を投与して
幸せにする。病気や怪我は技術の進歩でなくなり、労働の苦しみも薬物や生体工学や環境の
調整によって消去する。人々が操作され、常に心底から幸せである世界、究極の楽園…反・楽園。
環境管理型権力とは福祉国家と資本主義(企業経済)の権力なのですね。帝国的権力
(軍事力)は規律訓練型権力としての形を取ります。フランシス・フクヤマの著書
「人間の終わり」が、この権力(環境管理型権力)について分析した極めて優れた書物です。
フクヤマは環境管理型権力はポスト・ヒューマン、人間の終わりを齎すことを危惧し、
この権力の増大を法によって押し止めないと人間は幸せな、白痴の幸せに
耽る技術の奴隷、幸せに満ちた笑顔の奴隷になってしまうと警告する。
(デザイナーズ・ベイビーとして生まれながらに)自らの同意なしに遺伝子を
操作されている子供達は、潜在的損害を受けている第三者である。………
進歩によって問われるのは、生来の医学技術による功利主義的損得計算だけではない。
歴史以上常に存在していた我々の倫理意識の根拠そのものである。ニーチェが予言したように、
(ツァラトゥストラに出てくる末人のこと)我々はこの倫理意識を忘れるよう運命付けられている
のかも知れない。しかしそうなったら、本来の人間性による正邪の基準を捨てた結果を受け入れ、
(今の人間性を持つ私達が)望まない社会になるだろうことは認めなくてはならない。………
リタリンやプロザックのような(人格を改造する)薬品がまたたくまに広く使われるようになった
事実を見ても、我々がテクノロジーを利用して自分を変えたいとどれほど切望しているかが
分かる。………人間の尊厳の意味について、(人格を改造、改変する)向精神薬の数々は
重大な問題を提起し、この先来るべきものを予兆している。………
我々はポスト・ヒューマン、人間後の時代に足を踏みいれようとしているのかも知れない。
この未来ではテクノロジーの力によって、(国家に、企業に、親に、そして自ら自身までも)
人間性を変える力が与えられる。人間の自由という旗印のもと、多くの人々がこの力を
受け入れる。親がどんな子を産むか選ぶ自由、科学者が研究を進める自由、企業が
テクノロジーを用いて富を築く自由を最大限に活用したいと、皆が望んでいる。しかし、
この種の自由は、人々がこれまで享受してきた自由とは違う。従来、政治的自由が
意味してきたのは、我々本来の性質(生の苦しみなども含めて)が確立してきた
目的を行なう自由だった。………無制限な生殖技術の権利、科学研究の自由、
それら見当違いの自由を振りかざした、こんな未来を受け入れる必要はない。
テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなってもまだ、進歩は止められない、
自分達はその奴隷だ、などと諦めるべき理由などどこにもない。真の自由とは、
社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守る自由を意味する。
(フランシス・フクヤマ「人間の終わり」)
フクヤマは人間は自らの尊厳を持って環境管理型権力と戦うべきだと云う、
私も同意する、然し、ここでフクヤマが戦うべきだと云っているのは、究極的には、
人間を枠に入れることに対して戦うべきだと云っている。フクヤマが引くハイデガー
の文章がそれを見事に現している。私はこの文章に完全に同意する。
人間を第一の脅威にさらすのは、テクノロジーという潜在的な死の機械装置ではない。
実際の脅威は常に人間の本質にあった。人を枠に嵌めようとするルールこそが脅威なのだ。
これによって、本来の開示に気付けず、さらに原初的真実を経験できなくなる。
(ハイデガー「技術への問い」、amazonにはないけど、ハイデガー全集の18巻)
これが、最大の問題なのですね。私はフクヤマやハイデガーに共感する、私も
環境管理型権力に反対する、然し、…環境管理型権力は、基本的にヒューマニズム
の権力、すなわち『人間を幸せにする』ことを目的とする権力なのですね。だから、
例えば、この薬を打てば副作用ゼロで幸せになれます〜、という薬を企業が売り出した時、
私や、フクヤマやハイデガーのような人間が、”そんなの幸せじゃない!技術に魂を
売り渡すな!”と叫んだとしても…、『人間を幸せにする為の個人の自由』『人間を幸せに
する為の科学技術と経済の発展』みたいなお題目に、現代社会では、対抗できない。
明らかに、私やフクヤマやハイデガーのような人間の方が、人間から幸せを遠ざけようとする
ヒューマニズムに逆らう愚かな異端者として、周辺的なマイノリティの立場にやられるでしょう…。
そして、ドストエフスキーが描いたような、反合理的、反理性的な情動の全ては失われ、
合理的で健やかで伸びやかで何にも疑いを挟まないとっても健康的な連中が、世界を制する…。
私はそんな未来は糞食らえで、情念の方がずっと好きです…。
それにしても、諸君が、ただ正常で肯定的なもの、つまりは
泰平無事だけが人間にとって有利であるなどと、どうしてまた
それほど頑固に、いや誇らしげに確信しておられるのか?
いったい理性は利害の判断を誤ることはないのか?
ひょっとして、人間が愛するのは泰平無事だけではないかもしれないではないか?
人間が苦痛を同程度に愛することだって、ありうるわけだ。
いや、人間がときとして、おそろしいほど苦痛を愛し、夢中になることさえあるのも、
間違い無く事実である。この点なら、何も世界史など持ち出す必要は無い。
もし諸君が人間で、たとえわずかとも人生を生きた経験があるのならば、
自分の胸に聞いてみるがいい。
(ドストエフスキー「地下室の手記」)
私は、この文章に完全に共感するし、それこそ人間であることだ、幸福社会など糞食らえ!
と思うけど、時代は物凄い勢いで幸福目指す進歩によって、人間が自らメカニズムの歯車である
ことを望み、歯車であることが幸せだと感じる末人の世にしつつあるね…ああ、この問題は、
本当に絶望的なんですよ。誰も環境管理型権力が増大してゆくのを抑えることができない。
なぜなら、それは人間の幸せになりたいという強力な気持ちに根ざしている権力機構だから。
だから、人間は幸せを感じる為に、人間であることを捨てるだろう、そして、今いる私達、
私達の次世代、次々世代あたりが最後の人間となって、そして、後は完全な末人の世だ。
最低の軽蔑について話そう。おしまいの人、末人のことを……
『愛って何?創造って何?あこがれって何?』
――こう末人は問い、目をまばたかせる。
そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。
末人は全てのものを小さくする。
この種族はのみのように根絶できない。
末人は一番長く生きる。
『われわれは幸福を作りだした』
――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。
彼らは生き難い土地を去る。温かさが必要だから。
彼らは隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける。温かさが必要だから。
病になること、不信を抱くことは、彼らにとっては悪となる。
彼らはいつも警戒し、ゆっくりと歩く。
なぜなら石にけつまずくもの、人間関係で摩擦を起こすものは
彼らにとって馬鹿者だから!
彼らはほんの少しの毒をときどき飲む。それで気持ちの良い夢を見る為に。
そして最後には多くの毒を。そして気持ち良くなって死んでゆく。
彼らもやはり働く。なぜかといえば労働は慰みだから。
しかし慰みが身体に障ることのないよう彼らは気を付ける。
彼らは貧しくもなく、富んでもいない。
どちらにしても煩わしいのだから。
誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう?
誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう?
どちらにしても煩わしいだけだ。
既に牧人さえなく、畜群だけ!
飼い主のいない、ひとつの蓄群!
誰もが平等を欲し、誰もが平等であることを望んでいる。
みなと考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かってゆく。
『昔の世の中は狂っていた』
――と、この洗練されたおしまいの人たちは言い、目をまばたかせる。
彼らは賢く、世の中に起きる物事をなんでも知っている。
そして、何もかもが彼らの嘲笑の種となる。
彼らもやはり喧嘩はするものの、じきに和解する
――さもないと胃腸を壊す恐れがあるのだから。
彼らも小さな昼の喜び、小さな夜の喜びを持っている。
しかし、彼らは常に健康を尊重する。
『われわれは幸福を作りだした』
――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。
(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)
ああ…。人類の末路!!末人!!もう絶望のあまり笑うしかないよ、あははははははは
ニーチェの超人だったらこの絶望に耐え、なおかつ強く生きようと思うのだろうけど、
私は、まだまだ力が足りないみたいだ、この絶望を、乗り越えたい、ああ!!
ニーチェは本能の健康に『強さ』という表現を与えます。本能の健康とは、生存に
敵対的に作用するペシミスティックな認識が真実なるものであることを承認する
ばかりではなく、生存の意欲を一層深刻に毀損するような認識を敢えて欲求し、
場合によっては自ら産出することにより、生存全体を試練にかける実験的な
ペシミズム、ニーチェの言葉を使うなら、「ディオニュソス的ペシミズム」への傾向
を指します。このような意味での健康が『強さ』と表現されるのは、ペシミスティックな
認識が知性に対する負荷として機能するからであり、負荷に対する抵抗力、つまり
生存への意志の強さ、負荷に対する欲求こそ強さの本来の意味であるからに
ほかなりません。つまり、真に健康な人間は、生存が苦痛に満ちたものであり、
無意味なものであるからこそ、生存を欲するということになります。
(清水真木「ニーチェ」)
我が裡に、絶望を乗り越える生の力を…!!創生合体アクエリオーン!!
世界が、終っちまうかも知れないんだぞ!!
(アポロ。「創聖のアクエリオン」)
参考作品(amazon)
フランシス・フクヤマ「人間の終わり」
フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 上巻」
フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 下巻」