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A・シャステル「ルネサンス精神の深層」 −オタクの星辰−

しろはた(公式サイト) 本田透「喪男の哲学史」 A・シャステル「ルネサンス精神の深層」

プラトンが詩と名づけるものは、卑俗な音楽のように言葉の快さに
よって耳を魅惑するだけのものではない。それは至高至聖の秘奥の儀を
言葉に変換し、神々の聖餅をもって人の精神を養うものである。人はこの
聖なる狂気を、技芸の女神たるムーサイからも招来しようと欲したのである。

(ランディーノ「神曲」)

A・シャステル「ルネサンス精神の深層 フィチーノと芸術」を読了。
素晴らしく面白かったよ。いやあ、なんというか、フィチーノが
本田透さんに、ルネサンスがオタク文化にどうしても重なって見えて(^^)

本著は、ルネサンスを代表する偉大な哲学者、マルシリオ・フィチーノを
主軸に、ルネサンスにおけるネオ・プラトニズム、ヘルメス主義の流れを
辿ってゆきます。いやあ、本田透さんの学説に非常に近しいものを感じました。
フィチーノのイデア重視、現実を離れた超越的な至高の愛と美の理念を重視し、
理念を表すものは、芸術(本田透さん風に云うなら二次元)であるという二元的な
哲学観は、私にとっても我が意を得たり(^^)と心から思えるものでありますね。

特に面白いなと思ったのは、フィチーノが星辰サトゥルヌス(土星)の魂を
持つものとして、自らを、そしてネオ・プラトニスト、ヘルメス主義者、芸術を
愛する者達を見ている視点で、「喪男の哲学史」を彷彿とさせるものを感じたよ…。

(フィチーノによれば)星辰界と天球の秩序は「われらの内なる現実」
の可視的投影だからである。………フィチーノはこの問題を要約して
次のように言う――「観天を為しつつ、己が大事の解決を計らんとせば、
天を超ゆる存在とならんこと疑ひなかるべし」

人間は自然の法則と感応力の網の目に捕らえられていて、その最も明確な
力は星辰から発するものである。その力(現世的な力)に順応するのが、
人間として賢明な道である。それから(プラトニストやヘルメス主義者
のように)逃れるには、この地上の世界の幻想性を開示する、意識と存在の
至高の領域における完全な転換による以外にない。しかしこの自己超越は
常に繰り返されねばならない。人間は自己の希求するほどの高みには、
決して到達することができないからである。ここに人間の条件の劇的
(悲劇的)性格がある。霊魂は囚人であり、それを閉じ込めている質料は
ヘルメス主義者が語る暗い牢獄であり、肉体はプラトン主義者にとっては
一種の墳墓ではなかっただろうか。異教もキリスト教も、悪夢の苦しみや
囚われの身の息苦しさを描き出して、この悪のイメージの表現の宝庫を
提供している。ミケランジェロの「奴隷の苦しみ」の状態の説明としても
用いられた1840年の書簡で、フィチーノは例えば次のように述べている
――「肉体の生活は、魂にとって悪夢と苦悩を与える病気である。
我らの運動、行為、情熱は、病気、悪夢、狂気の錯乱の幻影に過ぎない」

………

新しい人文主義においては、悲劇的感情は悪と罪の恐怖感を伴ってではなく、
存在の幻影的な局面の発見、人間の内面における倦怠感と無力感の恐怖を
伴って現れた。このことを最も痛切に感じるのは、土星であるサトゥルヌス
の影響を受ける人々である。中心から最も遠く、その回転において最も緩慢な
この惑星は、当然ながら地上の生活(現世的な生活)には敵対的である。
この星は通常の生活には好意を持たず、平衡を乱し、最も零落したものたちの
住む最下層に転落するか、観照の至高の位階へ飛翔するか、いずれかを強いる。
と言うのは、この星こそまさに占星術の星、すなわち知の星であるからだ。
それは人間の条件の四区分を維持不可能にする。それは分極(extremitas)
の霊である――「神か禽獣か、至福か悲惨かの」。これはまた換言すれば、
叡智の支配者、純粋精神の原理たるサトゥルヌスは、ゼウスに属しその嘉する
ところの世界霊魂の領域を、当然のことだが破壊しようとするものなのである。

フィチーノはこの神話的対立の図式を大いに利用した。不穏な精神として
神経質で、心に憂悶を抱きやすい(ルネサンス)世代を代表する文筆家として、
彼は百科事典が「苦渋」(acedia)の名で呼ぶ苦悩の感情、精神的人間の病、
憂鬱症、ペトラルカが大いなるテーマとした夢想と故なき苦悩への傾向などに
対して、新しい意義(現実世界を超える理念世界への飛翔)を付与した。
これは彼が知悉している苦悩の感情だった。………サトゥルヌスの
苦患(現実に対して常に不完全感がある憂鬱、理念への欲求)は通常の
病気ではない。それは上なる世界(理念世界)からの召命の徴である。
サトゥルヌス気質は観照にふさわしい気質である。

………

サトゥルヌスの病に対する唯一の根本的な治療は、フィチーノがしばしば描写し、
驚くべき正確さで記述している、至高の要求に対する帰依、昇華なのである。

『………人々はサトゥルヌスの不吉な力を、木星たるゼウスに
訴えるだけでなく、まさしくサトゥルヌスそのものたる神格の観照を、
全身全霊をもって行うことにより、恵み豊かなものにかえることができる。
カルデア人、エジプト人、プラトン主義者達はかくの如くして、
運命の悪意を逸らすことができると信じている』

それゆえに憂鬱気質の精神的苦しみを回避するのは、ひとえに精神的努力による。
救いは「聖なる狂気」、プラトン的狂気より来る。(愛と美の理念的な)熱狂は、
「苦渋」の抑圧状態において魂を侵す混沌と闇の魔力から人を引き離す。
憂鬱症はそれゆえに、ある意味では、夢と恋の情熱がその第二階梯たる
「特権的状態」(至高の観照)へ接近するために、心理的に不可欠なものである。
それは観照の条件である。このようにしてフィチーノの世界は、ヘルメスの知と
サトゥルヌスに示される透視者の才を備えた、魔術師達の住み着く世界となった。
宇宙はこれらのものにとって、輝ける奇蹟たることをやめないのである。

(A・シャステル「ルネサンス精神の深層」)

素晴らしい…。歴史的二次元を感じるね…。歴史を超える二次元を…。

それ(プルーストの病)は、ヒポコンデリーな気苦労としてではなく、
レアリテ・ヌーヴェル(新しい現実)として現れた。………
――プルーストの場合のような、世の成り行きと個人の生活との非常に
深い絡み合いは、もしその基盤が、この実に深い、たえまない病以外の
ものであったなら、必ずやある卑俗で怠惰な満足感へ通じることに
なったであろう。ところがこの病は、願望も後悔ももたないある種の
フーロア(狂乱)から、あの偉大な創作過程における自分の位置を指定
される定めになっていた。ミケランジェロはシスティナ礼拝堂の天井に
<天地創造>を描く際、組みあげられた足場の上に乗り、頭を後ろに
そらして製作した。そうした足場が、ここに再び聳え立ったのだ。
この場合それは病床であり、その上でプルーストは、宙に支え持って
自分の筆跡で埋めた無数の紙を、彼のミクロコスモスの創造に捧げたのである。

(ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション エッセイの思想」)

哲学の歴史は喪男の苦しみの歴史であり、
「二次元」追求の歴史でもあるのです。
秋葉原には、オタクには、このような数千年にわたる
人類の営みというバックボーンがあったんです。

………

文化の歴史は、喪男の歴史なのです。
モテない者は幸いであり、真の「現実」は彼らのものなのです。
魂に傷を負った者だけが、新しい何かを生み出すことができるのです。
喪のエネルギーを、想像力に変換して。
天国は、脳内にあり。

だから、すべての喪男よ、孤立せよっ!

苦しみを超えて歓喜に至れ(ベートーベン)。

(本田透「喪男の哲学史」)

イエスが言った、「もしあなたがたを導く者があなたがたに、
『見よ、御国は天にある』と言うならば、天の鳥があなたがた
よりも先に(御国へ)来るであろう。彼らがあなたがたに
『それは海にある』と言うならば、魚はあなたがたよりも先に
(御国へ)来るであろう。そうではなくて、御国は、
あなたがたの只中にある。そして、それはあなたがたの
外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、
そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、
あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らで
あることを。しかし、あなたがたがあなたがた自身を知らないなら、
あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である」

(荒井献「トマスによる福音書」)

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A・シャステル「ルネサンス精神の深層」

本田透「喪男の哲学史」

本田透「萌える男」

本田透「電波男」

荒井献「トマスによる福音書」

クリバンスキー、他「土星とメランコリー」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 近代の意味」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション エッセイの思想」

ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション 記憶への旅」

ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源 上巻」

ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源 下巻」

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