
2エントリ「夏目漱石と清」「萌え系とラノベ系」
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夏目漱石と清 −萌えと、寂しくて暖かい思い出−
夏目漱石「坊っちゃん」の清を萌えキャラ化する「もえきよ」(「Broom
Handle」さん)
やべえ、萌え過ぎだ!!(^^;先に書いた「萌え系とラノベ系」にも通じますが、
私もどう考えても、坊っちゃんの清は萌えキャラだと思いますね。清についての
夏目漱石の思い入れについてはちょっといい話があるのでご紹介致しますね(^^)
坊っちゃんという小説に、不思議に懐かしいところがあるのはなぜだろうか。
それはことによると、この小説の奥底に、清というばあやがいるためでは
ないだろうかと、私はこのごろしきりに思うようになった。………
この小説の大切なところは、坊っちゃんが結局ばあやの清のもとへ帰ってくる
というところである。坊っちゃんは赤シャツだの野だのやからだのを退治した
ことにおいて幸福になるのではない。赤シャツや野だを退治し、腹いせはした
ものの松山にいられなくなり、清の待っている東京に戻ってくることで幸福に
なるのである。漱石はここのところを実にさりげなく書いている。
《清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、
早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月
肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから
清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの
来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。》
「坊っちゃん」の原稿(生原稿)を復刻版(番町書房)でみると、松屋製十二字×
二四字の変形原稿用紙の一四九枚目にあたるこの結末の部分も、他の部分同様に
消しや直しの跡は少なく、この小説が一週間かそこらのあいだに一気呵成に
書き上げられたものであることを示している。漱石の文字は意外に細く、小さく、
やや神経質な震えのあとをうかがわせて、「気の毒な事に」をつけ加えたり、
「肺炎で」の「で」を消して「に罹って」を入れたりしている。
だが直しのなかでもっとも注目すべき個所は、最後の一行の「小石川」を
二本棒で消して「小日向」と訂正してある個所だろうと思われる。
「養源寺」はもとより架空の寺であり、漱石の原稿の「小日向」には岩波版全集
(第三四巻)にあるルビはふられていない。しかし私がこの訂正に注目する理由は
まさにこの小日向が夏目家の墓所のある高源山本寺の所在地だからである。
本法寺は浄土真宗の寺でときに本方寺とも書かれ、京都東本願寺の末寺で寺地
千二百八十余坪、神田上水堀沿いに小日向水道橋に集まっている一群の寺の一つである。
この本法寺に漱石の生母千枝が埋葬されていることはいうまでもない。
しかしそこにはまた智力院釈尼妙覚、すなわち彼の兄直矩の二度目の妻
である登世も葬られている。私は過去三年半のあいだ「漱石とその時代」
という伝記の稿を書きついで来て、さきごろようやくその第二部までを
仕上げることができたが、漱石の成長過程を通じて言葉を介在させない理解を
彼に示し得た他者は、わずかにこの二人(千枝と登世)を数えるのみであった。
生母千枝と漱石はわずか四年半の起居をともにしたにすぎず、この間彼は
(養子先の)塩原姓を名乗っていて法律的には母親と他人であった。
嫂登世と彼のあいだにはおそらく恋愛感情が存在したが、道徳上の禁忌は
この感情を公にすることを許さず、しかも登世は二十四歳の若さで早世した。
このように中断されなければならなかった実人生における”無言の理解”
への渇望を、果して漱石は作品のなかで充足させようとはしなかったであろうか。
清というばあやの象徴的な姿が現れるのは、まさにここにおいてである。
清は坊っちゃんのすることはなんでも正しいと信じ、だまって彼を受け入れてくれる。
彼女のそれのような暖かい視線を肩先に感じている主人公を、漱石は「坊っちゃん」
以外の作品では一度も書かなかった。その意味でこの小説は漱石の残した唯一の
メールヘンである。そして清というばあやは漱石の生み出した幻影であると同時に、
日本の文化がその根底に秘めているある”母なるもの”のつつましい顕現でもあるのである。
(江藤淳「夏目漱石著『坊っちゃん』」)
清に、漱石の愛する人、漱石の本当のお母さんと、そして登世さんの姿が投影されていることは
間違いないでしょうね…。この作品は、とても暖かいですもの――はっきりと伝わってくる。
以前、本田透さんの「萌える男」と江藤淳の「成熟と喪失」を比較した書評でも書きましたが、
喪われて行く日本の自然なる姿、母なるもの、すなわち自然な愛情としての関係性なるものが
喪われて行くなかで、喪われ行くことへの悲しみと苦悩、そして喪われて行くものへの深い愛情、
喪いたくないという想いと喪われて行くことを止められない無力の自覚、その諦念とした悲しみに
充ちた暖かい郷愁と憧憬が、漱石を源流とする日本文学の一つの流れとして今もたゆとうていて、
その最新の嫡子が萌えだと私は思うな…。萌えには、暖かい、そして寂しい息吹があると感じるもの。
萌えがどんなに明るくても、そこには人間の関係性を破壊する方向へと突き進む日本の現実の前に
敗れる悲しい影があって、だからこそ、萌えるその子が、とても愛しく、かけがえなく感じるよ。
それは「天皇制」とか、「民主主義」とかいう公式の価値からすれば無にひとしい
ようなものである。それは母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父が
とにかく父としてどこかにいるという安心感、といったようなものの堆積にすぎない。
しかし、そういうものがなければ実は人は生きられない。
(江藤淳「成熟と喪失」)
参考作品(amazon)
夏目漱石「坊っちゃん」
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萌え系とラノベ系 -エロゲと坊っちゃんと伝統の型-
「限界の近代・限界の思考 〜境界の正当性を巡って〜」
MIYADAI_com Blog
To be,or
not to be,that is the question.
(シェイクスピア「ハムレット」)
宮台真司氏が「限界の近代・限界の思考 〜境界の正当性を巡って〜」において、オタクが、
保守性・社会性を内部に持って葛藤する「萌え系」と、脱社会的で状況適応的な「ラノベ系」
に二分されてきているということを書いていて、おお、これは私も同感だなと思いましたね。
正統的なロマン派芸術論によれば、芸術とは「現実から虚構へと旅立ち、虚構から再び
現実へと帰還したときに、以前とは現実が違った趣きで感じられるようになる」ものです。
ところがロマン派には「貧しい現実への帰還など考える必要がない」との立場もあります。
多少似た分岐が昨今の「オタク文化」にあります。「萌え系」と「セカイ系」の緩やかな分岐
がそうです。「萌え系」のかなりの部分は保守的で、『電車男』に象徴されるように
「オタクだって本当は現実を生きたいんだ」という常識的な図式で理解できます。
ラノベ(ライトノベルズ)と呼ばれる小説の周囲に集う「セカイ系」は違います。
彼らは確かに「ここではないどこか」を追求し、その意味で「異世界」に遊ぶオタク文化の
正統ですが、その「ここではないどこか」にはもはや人間がおらず、いても壊れています。
優しさと残酷さを同居させる人間といえば文学の正統的主題ですが、ラノベは似て非なるもの。
優しい自分と残酷な自分は解離(disassociation)していて互いに関係ないので葛藤もない。
或いはカブト虫を殺すことと人間を殺すことととの間に何の差異も感じない。
敢えて言えば“人間的であろうとすると──マトモな人間たらんとすると──『電車男』の
主人公のような「生きにくい系」になるし、人間的であることの実りも大きくはないのだから、
むしろ人間的であるのを放棄することで、ラクになろう”という志向が見えます。
(宮台真司「限界の近代・限界の思考 〜境界の正当性を巡って〜」)
これはいい文章だと思いますね。特に「電車男」の倫理性はもっと注目されていいと私は思っている。
それにエロゲなんかは「萌え系」の牙城だと思いますが、エロゲにおける恋愛模様と、ラノベ系
における恋愛模様って、まさしくここ近年でどんどん分かれてきている感じが致しますからね…。
非常に人気のあるエロゲであるTYPE-MOONの「Fate」シリーズなんかは、明らかに萌え系
というよりはラノベ系の方に位置する作品なので、勿論、一概には分けられないところはありますが…。
ただ、多くのエロゲの恋愛って、凄く古典的なところがあって、社会性や倫理性、公共性と、恋愛
との狭間で葛藤するというタイプの作品、シェイクスピアでいうと「ハムレット」とか「オセロー」みたいな、
俺は彼女を愛している、しかし、彼女との愛の前には、家族or職場or友人or仲間or部下or世間…、
すなわちなんらかの社会的なるものが立ちふさがる。俺は、社会的なるものにも価値を認めている、
ああ、俺はどうしたらいいんだ!!女へ愛を貫くべきか、それとも共同体を愛するべきか!?
みたいな感じの作品が多くて、凄く古典的な、人間永遠のテーマである背反する価値のなかで
苦悩する人間存在、みたいなのが、エロゲ恋愛物の大きなテーマになっているんですが…。
ラノベ恋愛系の多くの作品って先に挙げた内面的・倫理的な葛藤とは無縁なところに特徴がある。
勿論、ラノベ系の登場人物も葛藤したり悩みを持ったりしますが、それは完全に自分と恋人
のことのみを考える徹底したプライベート・プラグマティズムに沿ったもので、社会に価値を
認める(社会全体や自己に無関係な他者を愛する)ような観念は全く除外されていることが多い。
余談ですが、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」はラノベ恋愛物に近い感じですね。
オフィーリアやデズデモーナは、ジュリエットとは、明らかに自ら抱えているものが違う。
オフィーリアやデズデモーナはコーディリアに繋がり、ジュリエットはマクベス夫人へ繋がる。
私はラノベ系を読むと衝撃を受けることが多くて…。勿論、全てのラノベがそうではありませんが、
やはり、出てくる登場人物が徹底的に自己と自己に直接関係のあるもののことしか考えていない、
自己と直接は関係のない他者が無数にいて、それらの他者達と一緒に社会が形成されているんだ、
という価値概念が完全に存在しないように見受けられる作品がラノベには多く、衝撃を受ける。
そこにある種のシュールさみたいのを感じて、なにかゾクゾクするような妙な読了感があって、
それはそれで、ある種の面白さなのかな…?とも思いますが、それは、やはり不可思議な世界ですね。
エロゲの場合は、時代劇の水戸黄門とか、夏目漱石の「坊っちゃん」みたいな、良い意味での
ある種の親しみが持てる枠を登場人物たちが持っていて、例えば、無条件の人に対する親切とか
思いやりみたいな人間性の枠(お約束)みたいなものをエロゲのヒロイン達は持っていることが多い。
例えば、主人公とヒロインが歩いていて、たまたま道端で困っている人の側を通ったとき、
エロゲのヒロインだと九割方は、その困っている人を無条件に助けようとしちゃう感じです。
そして、そこから色々と話が膨らんでいったりするんですが、ラノベのヒロインだと、まあ、
五割方は、助けないでスルーして歩いてゆくかなという感じはしますね。私の感覚的な推定
なので、数値は当てにはなりませんが、やっぱり、どうしても、そんな感じが私はしますね…。
私はエロゲをプレイしていると、夏目漱石の坊っちゃんを思い出すことが多い。エロゲの
主人公って、「坊っちゃん」みたいなタイプの人物であることが結構多いゆえ。熱血な正義漢、
人間としての芯が一本筋が通っている。それはエロゲがある種の人間的理想を描こうとしている
ことに主因があると思う。夏目漱石の作品の批判者として有名な文学者に正宗白鳥がいますが、
彼は夏目漱石の「坊っちゃん」を徹底的に批判した。それは卑近な正義感、型に嵌った人物
だらけのおめでたいものであり、本当の人間を描く作品は余裕派(夏目漱石のことです)の
ような伝統的型に嵌ったものではなく、人間精神の深淵を描くようなものでしかありえないと、
白鳥は述べた。然し、それはそうなのだろうか。困った人を助けるとか、思いやりとか優しさ
というものが表にでるとき、それはどうしても型(伝統)に嵌った形として現れるし、それに、
そういったものが、現実の世界で崩壊してゆくのを夏目漱石は知っていたからこそ、漱石は、
そういった、「型」、そしてその「型」のなかで葛藤する人物を描き続けたのではないだろうか。
ここ(夏目漱石の小説)に現れているいろんな人間は型の如き人間である。ここに
現れている作者の正義感は卑近(伝統的な型に嵌っている)である。かういう風に
世の中を見て安じていられればおめでたいものだと思われる。
(正宗白鳥「夏目漱石」)
(正宗白鳥が夏目漱石の小説の人物を批判していう)「型の如き人間」とは、現実には存在
しえない人間である。「卑近な」正義感とは決して実生活では実現し得ぬ正義感であろう。
それなら「坊っちゃん」という人物は非存在の原理によって生きる非存在にほかならない
という意味で、「猫」と一脈相通じる人物だといってもよい。このような非存在によって
自己を語らねばならなかったのは、帰る場所もなく追いつめられた漱石の必死の抵抗――
つまり批評である。しかしそれだけではない。なぜ文学は非存在を、つまり怪力乱神を
語ってはいけないか。幽霊を、夢を、人語を語る猫を、「卑近」な正義感を振り回して
反射的に行動する愛すべき「型」を語ってはいけないか。もし追いつめられた漱石がこういう
「型」によってしか語れなかったとすれば、それは文学にはもともと非存在によってしか、
あるいは怪力乱神によってしか語れない部分があるからではないか。そうだとすればこの
「型」は、おそらく分析的・暴露的な「真実」よりもはるかに生命力に充ちたものなのである。
(江藤淳「漱石の旧さと新しさ」)
ラノベ系にも良いところは沢山あると思います、正宗白鳥が云うような型に嵌らない人間の深淵
とやらは、ラノベの方がエロゲよりも描写的にリードしていると思いますし。例えば、道端で
困っている人がいたときに、通りかかっても無視してスルーする人の方が、現実世界では遥かに
多い訳ですよ。その点で、ラノベよりも遥かに、エロゲの方が非現実的な人物像を描いている。
萌え系の方がそういった意味で、非現実的な型に嵌っているということは確かにあるでしょう。
それにあんまりにも型に嵌りすぎた人物造形だと、それはそれで醒めてしまうということもある。
しかしそれでも私は、萌え系(エロゲ系)の方が、私の性分にあうし、好きですね。これは
私の感性が保守的ということなのかも知れませんが(^^;、それでもやっぱり、脱社会化して
二人だけの世界に篭っちゃうような現実的方向性よりも、例え傷ついても、開かれた世界に
向かい頑張って自分を投企していく型=伝統の強さを持つヒロインの方が私は好きで、そういった、
他者への志向、感覚を持っているヒロインが、私はとても、心から暖かく感じて、好きなんですね。
例えば、私が最近やったエロゲで鑑みても「Re:」とか、「車輪の国、向日葵の少女」とかに
出てくるヒロイン達は、ラノベに出てくる多くのヒロイン達とは明らかに異質ですもの。それは、
ある種の型――倫理的な欲求とその表出としての、一つの型として彼女らの行動に現れてくる。
その型を、とても、暖かいものとして私は感じるな――。
萌えるって、この暖かさを感じることなんじゃないかなと、私は思っています。
それは一言でいえば、文学に「美」や「善」を求めようとする欲求である。あるいは「風雅」
や「諧謔」を求めようとする要求である。いいかえれば、文学が単に(人間の)「真実」と
されているものの暴露に自己限定していることを枯渇、あるいはこわばりと感じ、そこから
失われている豊かさを回復しようとする願望である。それはまた逍遥や二葉亭によって
虚空へ打ち上げられた「文学」を、大地に呼び戻そうとする願望だといってもいいかもしれない。
(江藤淳「漱石の旧さと新しさ」)
そして、先にも述べたようにこの暖かさが現代世界から次々と失われていくように感じるからこそ、
この暖かさに、私達は大切なものを、貴い愛しさ、慈しみと深い憧憬を感じるのではないでしょうか。
「坊っちゃん」が、(正宗白鳥がいうように伝統的な人物の型に嵌っている作品
でありながら)それにもかかわらず近代の文学作品として今日なお新鮮に
生きつづけているのは、単に漱石がここで「型」を踏襲しているからだけではない。
むしろ彼がその意義の奥底で「型」の喪失を予感し、その予感におびやかされている
為である。換言すれば、「坊っちゃん」は、馬琴の勧懲小説の主人公とは違って、
公式に認められている時代の価値観の反映ではなく、作者の危機感、つまり
「近代化」によって喪われつつあるあの「共通の(人間性に対する)基本的な前提」
の崩壊に対する不安から創り出された人物である。したがってこの型はある暗い
陰影におわれている。我々の「坊っちゃん」に対する愛着に、この小説の明朗な
行動的世界を輪郭づけている暗い予感への共鳴がかくされていることは否定しがたい。
「赤シャツ」に勝って社会に敗れた「坊っちゃん」は、清のもとに帰ることができた。
しかしやがて清も死に、小日向の養源寺に埋められてしまうのである。清も養源寺の
墓もない我々は、それならいったいどこへ行ったらいいというのだろうか?
(江藤淳「漱石の旧さと新しさ」)
…ほんとに…。どこへ行ったらいいのか…ですね…。
社会の倫理が崩壊しているとき、社会(他者)のことを考えない無倫理的な人間というのが
一番その社会に適応している人間な訳で、もしラノベの登場人物のように生きられるならば、
それは現代社会=無倫理の社会に全面的に適応している訳で、とても生き易いでしょう。
然し、そのように生きられない人間、どうしても、社会や他者とかへの想いを抱く、
そういった超越的な欲望、倫理的欲求を抱いてしまう人間、ゆえに社会に適応できない、
無倫理社会の状況から取り残された人間はどうすればいいのか、どうやって、無倫理の社会
の中で倫理的に生きられるか、夏目漱石の小説は突き詰めればそういった問いを心情の奥深く
へ投げ入れてくる、そして萌え系や本田透さんの著書も、漱石の小説に比べればある程度
希釈はされているけれど、やはり同じ問いを問い掛けてくる、そのように私は感じる。
ラノベ系の多くのヒロインが持たず、萌え系(エロゲ系)の多くのヒロインが持つもの、
後者の彼女達のそれぞれ独自的な深い特性の一つであり、同時に強い他者性であるもの、
すなわち彼女達が抱く「倫理的な欲求」というものを、どう捉え、どう答えるか。
自らの愛する人が倫理的であるということは、己自身の倫理を問うことに繋がっている。
清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、
よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。
おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、
東京で清とうちを持つんだと云った。
(夏目漱石「坊っちゃん」)
参考作品(amazon)
夏目漱石「坊っちゃん」
TYPE-MOON「Fate/hollow ataraxia」