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フリーゲーム評「ナルキッソス」 −寄り辺なき人間−

「ナルキッソス」公式サイト(ステージ☆なな)

メシアはやってくるだろう――信仰に対する徹底した個人主義が実現
した暁には。もはや誰一人、その実現を阻害せず、誰もが阻害を
容赦しない。つまるところ墓が開く暁にやってくる。個人主義の手本を
実際に示してみせ、かつ個人の中の仲介者を復活させるという象徴
において示す点で、これはキリスト教の説くところでもある筈だ。

メシアはやってくるだろう――もはや必要なくなったときに。到来の日より一日
遅れてやってくる。最後の日ではなく、とどのつまり、いまわのきわにやってくる。
(カフカ「メシアの到来」)

シニシズムとは畢竟するに、異なったものを等しいものにしてしまう非道徳に帰する。
(スローターダイク「シニカル理性批判」)

先日、良作フリーゲーム「ヒトナツの夢」を取り上げた際、AVG「ナルキッソス」
についても軽く触れましたが、こちらもきちんと取り上げておかねば片手落ち
かなと思い、今回は「ナルキッソス」について徒然と文を書かせて頂きたく。

「ナルキッソス」は…私は、この物語のあり方には賛同できないですが、
それでも、現代日本の風潮を上手く描いた丁寧な良作ではあると思い、
また、この状況というものに対して考えてゆかねばならないと思います…。

「ナルキッソス」は不治の病によって末期患者用のホスピスに入院
している主人公とヒロインが、ホスピスを脱走して二人旅を続ける物語。

主人公とヒロイン…二人の心象が…ぞっとするほどに空虚に描かれていて…。

特に主人公の空虚感が凄い。完全に空っぽ。
アメリカン・サイコの主人公
パトリック・ベイトマンがモデルとしか考えられないような感じなんですが、
こういった空虚感が現実の世相に漂っているとすれば、深刻な問題かと…。

僕は人間的特徴を備えている。でも感情は何一つない。
(パトリック・ベイトマン。「アメリカン・サイコ」)

この物語の主人公は、ただ流れと惰性と他人の欲望の反射で動く、
自らの意志を持たない鏡(他人の欲望を行為=反射する)のような
存在で、自らが不治の病で死ぬ事も家族も友人も他の何もかもが
完全に他人事の世界なんですね。自らの心を、持っていない……。

主人公の彼が自分の帰属するものを一切持っていないというのは、
西洋的な個人主義の徹底の先にある帰結だと私は思いますね…。

一切のものから切り離されて浮遊する個人は、周囲の欲望を反射
するだけの鏡になるしかない。彼はまさにそんな様相を示している。

彼は、ホスピスの長期滞在患者であるヒロインの欲望の写し鏡と
なって、ヒロインとともにホスピスを脱走して無計画な旅を続ける
んですが、そこに彼の意志はないし、ただ欲望を反映しているだけ…。

例えば彼は旅を続ける為に窃盗を繰り返しますが、そこには窃盗に
対する罪の意識どころか、窃盗含むあらゆる行為に対する内省的な意識
(主体性)は存在せず、ただ自らが写す欲望の帰結としてその行為
が行動として導き出されているのみ…凄まじい空虚感描写が圧巻…。

この繋がりの分断…繋がりの意識のなさ…まさに個人主義と合理性の追求
の権化たる西洋技術文明の究極形かと…。合理的動物としての人間像――。

彼が反映するヒロインの欲望も、ヒロインがTVから憧れとして与えられた
欲望というのが、なんとも…物悲しいというか哀れというかなんというか…。

病院(ホスピス)という人工的環境からの脱出をヒロインは夢見ますが、
彼女の夢もまたマスメディアのコマーシャリズムによって人工的に
作り上げられたものであるというのは、なんとも痛みを感じる皮肉。

いいですか、シスター、僕は全くのしらふですよ。でも僕は心の底から確信
しているのです。もはや誰もそれほどまともに故郷に帰ることなどないことを。

(ブロッホ「夢遊の人々」)

ヒロインはTVで見た水仙が綺麗だったので、水仙の本場淡路島へ行きたい
と思いを抱き、そして、グラビア雑誌で見た、水着のモデルに憧れを抱き、
海ではしゃぐグラビアモデルのようになりたいと願っている。

ヒロインの意志を反映する虚無の鏡である主人公のサポートによって、
ヒロインは淡路島に辿りつき、そこで一面の水仙を見、(ここはこの物語
における最大の救済でしょう)そして…この後の展開が痛くて堪らない…。

ヒロインはグラビアモデルへの夢を叶える為に急ごしらえのビキニ姿で
海へと入って遊ぶのですが、それは…冬の海なんですね…。

そして、その冬の海の中で微笑む。本当は、寒くて堪らない筈なのに、
そのようなことが出来る、そこにはヒロインの意志が働いている…。

然し、この物語って、人工的な環境(病院)の中での生活で自分の
意志を押し殺していたヒロインがその人工的な環境から逃れたいと
願う気持ちが主軸として据えられていたように見うけられるので…
ならば、自らの自然が訴える意志(寒さ)を押し殺して、マスコミに
よる欲望(グラビアモデル)を自らの意志で完成させようとするのは、
病院での入院治療において自らの意志を押し殺し、治療を大人しく受けて
いたのと何も、変わらないような…。人工的な抑圧が二段になっていて、
片方の人工性から、もう片方の人工性へ飛び移ったに過ぎないような…。
病院での治療の時も、肉体を抑えた意志は働いていたのですから。
マスコミの欲望を選ぶか、病院の欲望を選ぶかの差だけしかない状況…。

私は、唖然とするとともに、非常な物悲しさを覚えましたね…。

シナリオライターさんは本作について、「侘び寂びを表現した」と驚くべき
発言をしておりますが、この描き方は侘しさ寂しさというより、自然から
切り離され、あらゆる繋がりを断たれた人間の悲惨としか思えません…。

侘び寂びというのは、元々茶道の史的な展開と、仏教(禅)の無常観、
幽玄観と結びついた概念で、歴史的、伝統的な美の概念の上に、
世への諦念、また世の無常、そしてそんな世の中における侘しさ
寂しさの境地から見出す美の確立が目指されていて、ただ単に
貧しかったり悲惨だったりするものではなく、伝統美の歴史的形成、
それを踏まえた上での心身の修練の極致の果てとして観照される。

わびの本質を知るための方法の一つは、その史的展開を跡づける
ことである。ところで、わびはすぐれて茶道の理念であった。………

(栗山理一編「日本文学における美の構造」)

寂びは、侘びよりもより無常観が強く、かつて在ったものが滅んで往く、
伝統的な美の形が滅んで往く中に、美の(不在なる)形を見出す。

これらは両方とも、伝統的・歴史的美というものの土台の上に、その
美の変遷と無常を、美の不在の美、かつて在った美、今在る侘しく、
寂しい美、それらを自然観、幽玄的意によって捉えることにより生まれる
美の形としてあり、本作「ナルキッソス」においては、そういった伝統的・
歴史的美と云ったものが完全に断たれた形態の為、これを侘び寂びを
描いた作品と云うにはかなり無理があるように感じますね…。

風狂と結びつけて強弁する方法もありますが…伝統的・歴史的な美から
一切切り離された風狂というのも、有り得ない話なので、まあ無理でしょう。

寧ろ、「ナルキッソス」に近いものとしては、ポスト・モダン文学、
「人間」という存在神秘を否定し、人間の内面を存在しないものと
みなすラディカルな現代文学に遥かに近い物語でしょう。
それは、西洋的、あまりに西洋的な、一つの帰結。

そこでは、伝統的・歴史的な美の価値観は解体され、人間はあらゆる
繋がりから切断された砂粒のような存在として、超越的なものへの意志
を喪失し、グローバルメディアから送り込まれる情報に翻弄され続けている。

すべての物が、あたかも張り子になって彼の周りに転がっていた。
手に取るものは埃のように指のあいだからこぼれてゆく。
世界ははかない存在で、掴むことも支えることもできない。
人はただ虚空から虚空へと落下してゆく。闇の詰まった袋を
ひとつ背負ってうろつきまわるのみ。ドクトル・オッテルンシュラーク
は深い深い孤独の中にいるが、地上は自分に似た人間ばかり。………
新聞を見てもめぼしいものは何一つ見当たらない。
竜巻、地震、白人と黒人の紛争、火事、殺人、政争。何も無しだ。
無さ過ぎる。汚職、株の暴落、一財産が吹き飛んだって。
自分に何の関係がある。何を感じろというんだ。大西洋横断飛行、
速度記録の樹立、インチ幅の大見出し。どの新聞も大声で他紙を
圧倒しようとし、最後にはもう何も聞こえない。
世紀の喧騒で、眼も見えず、耳も聞こえず、何も感じなくなる。
裸の女達の写真、太腿、胸、手、歯。一盛りいくら、といった
感じで積み重なった明るい肉塊が自分を売り込んでくる…

(ヴィッキー・バウム「ホテルの人間達」(グランド・ホテル原作))

現代世界が齎す恐るべきシニスム。そのシニスムに底まで浸かった
本作「ナルキッソス」の主人公は、ただの欲望の反射鏡となり、
そしてヒロインはただ孤独なる欲望の充足(それはTV的欲望の反映…)
を充たした後、自死してゆく。それを看取る主人公は、存在なき空っぽに
過ぎず、結局はヒロインは人工的環境から逃れる為に病院から
脱走しながら、TV的欲望を自らの身で反映して、そして孤独に死ぬ。

なんという、悲惨、ブレヒトの悲惨悲劇なんかよりずっと悲惨な状況ですよ。
こういった悲惨を、私は打破してゆきたいし、それには、人間と人間の
間に橋を再び掛ける、何を青臭いことをと云われるかもしれないけれど、
やはりどうしても、人間と人間の間の、人間と自然の間の、
人間と伝統の間の、人間と歴史の間の、橋を、一生懸命掛けてゆく、
そういった地道で、労も多いけれど、また比べられぬ歓びもある、
互いの、絆の創造と云ったことを、我々は必死でやらねばならぬと思う。

それは、本作が描くようなTV的(メディア的)欲望の掻き立てではなく、
私達自身の中から、私達同士が、自然や歴史と結び往かねばならない。

世の中の公共性やその(公共的)集団組織は、人間の
本質的な在り方の運命が決定される場所ではないのです。
人は、孤独について語るべきではありません。
然し、孤独こそは、思索する者達と試作する者達が、
人間としての力を振り絞って、存在に助力する時に
立つ唯一の場所で在り続けるでしょう。

(ハイデガー。「ハイデガー=ヤスパース往復書簡」)

もし、絆がどこにもないならば、ナルキッソスのヒロインのように
自らの為に自らだけで死ぬしかない、これは人間の歴史において
とても不幸で、とても悲しいことだと私は思っている。

そのような社会になれば、行き着く果てには、主人公のような、
空っぽの虚無だけが、漂うことになりかねない。
それは悲劇的状況ですらない。それは、悲惨だ。

橋を掛けなければならない。身命を超える橋を。

歳月が過ぎて三百年を数えようと、ただその永劫に美しい感傷、
一切人文精神の地盤たる如きかかる感傷にふれるとき、今宵も
私は理知を極度にまで利用してみつつ、なほつひに敗れて愚かな
感動の涙にさへぬれ、この一時の瞬間をむしろ尊んでは、かかる
今宵の有難さと、むかし蕪村が稀有の機縁を嘆じて歌つた詩に
かりて思つてみる。それこそ最後の理知と安んじたい我らの
なさけない表情であらうか。

(保田與重郎「日本の橋」)

私達は、絆の橋を掛けること、信じること、愛すること、想いを、
自らの身命を超えて、信じ、愛する思いを、抱くことを、忘れては
ならないと思う、それを感じられる世の中で在って欲しい、
そのように動いて欲しいと、私は行為し、願っている。
KEYの「CLANNAD」はそういった絆の橋を描いていて、私は
その橋に、この悲しい日本のささやかな希望を、見出している――。

「それは人々、くさぐさの民の声、
慰めと希望、そして遮るものなき善意の声だ。
自害なさいますな。
だって私たちはみなここにいるではありませんか」

(ブロッホ「夢遊の人々」)

参考作品(amazon)
KEYCLANNAD-クラナド-」

アメリカン・サイコ」(DVD)

「グランド・ホテル」(DVD)

ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ 上巻」

ブレット・イーストン・エリス「アメリカン・サイコ 下巻」

ヘルマン・ブロッホ「夢遊の人々 上巻」

ヘルマン・ブロッホ「夢遊の人々 下巻」

ハイデガー、ヤスパース「ハイデガー=ヤスパース往復書簡」

ペーター・スローターダイク「シニカル理性批判」

フランツ・カフカ「カフカ寓話集」(メシアの到来)

栗本理一編「日本文学における美の構造」

保田與重郎「日本の橋」

 

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