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徒然SM論 −ロリっ子女王様と本当の心の安らぎ−

エシャニ:僕は極めて非人間的な専制をせざるを得なかったのだ…。
ルールゥ:(鏡の前に立ち、ネックレスをつけながら)それはよい練習でしたこと。
エシャニ:僕が今、無条件に女の権力の前に平伏することに憧れるとすれば、
それは、リラックスして気分を変えたい自然な欲求なのだ……。女の人生には、
男を完全に自分の権力下におく以上の喜びがあると、お前に想像できるかい。

(フランク・ヴェデキント「地霊」)

疲れ果てたので、ひより様と邂逅してきました――

ああ…。ひより様…。マゾヒズムだけは真に心の疲れを癒してくれますね…。

マゾヒズムは疲労を癒してくれる。人類が生んだ文化の極みだよ…。

専制すること、支配すること、指示すること、命令すること、疲れ果てた…。

絶対主義国家の頂点たる君主とか、私にはちょっと信じられないものがありますね。

完全な支配者たる場というのは、その人間の精神を完全に
世界に拡散させて零にしてしまうのではないか。

そうならない為に、君主達には何らかの仕掛け(幻想)が勿論あるのでしょうけれど…。

サディズム、支配することは、支配者の存在の地平を無限定に無限に拡散させて、
拡散して消え去るか、なんらかの限定的なものを逆入させる(被支配者となる)か、
どちらかしか最終的には選択できない。自らの時空を限定的として現させること、
これができなければ、サディストは雲散霧消してしまう。全ては支配を必要とする…。

言語学的モデルに戻れば、もしサディストが「私は拷問する」と言う人物だとしても、
マゾヒストは「私は拷問される」という人物ではなく、「私は私の拷問を指揮する」と
言う人物である。………マゾ的空想はいつも主体が死と出会うことを求める。

(ジョン・K・ノイズ「マゾヒズムの発明」)

真なるサディストが完全な支配者であるとすると、そのサディストは行動不能になる。
全ての志向性を自ら支配しようとすることは、自己内部の志向性に対する否定になる。
なぜなら、自己の持つ志向性は、それ自体が彼を支配する被志向性として元々存在
した、外部によって規定されることで彼の中に誕生した志向性であるのだから。

結局のところ、外部によって規定される志向性を受け入れたサディストになるか、
自己破壊するサディストになるか、サディストにはどちらかしか選べる道がない。

外部によって規定される志向性を受け入れること、つまり、マゾヒストの「このように
私を拷問せよ」というイメージに従うか、もしくは自己破壊するサディスト、つまり
マゾヒストを殺してしまうようなサディスト、志向性なき他者破壊は自己破壊と=である。

後者は、他者を破壊しながら自分も破壊するだけの、破壊的犯罪者の道のりであり、
多くのサディストは前者、規定された志向性を受け入れたサディストであり、私も
そちらの側のサディストとしてのSMプレイヤーですが…この立場は中間管理職
みたいなもので、マゾヒストの求める限定性をマゾヒストの肉体へ行為の形で受渡し
している、郵便配達人…。サディストの主体は、マゾヒストと云う外部に規定されている。

これは、セックスプレイとしてのSMよりも、もっとずっと広い、支配-服従関係全て
に云えることで、何らかの超越的措定を常に支配する精神は必要としている訳です。

岸田秀氏辺りは、この超越的措定は、男性のみ必要なものであって、根源的には
男性が充足不可能な、時空から切り離された存在として存在していることに対する
自覚の不安、それは男性の生物学的根源に帰していると考えているようですが…。

男の方が尊大(強権的・支配的)なのは理由があって、いわば自分が世界に
存在している根拠というのを、男は見つけにくいからなんですね。………
もともと生物学的にメスがあって、オスなんてあとから出来た訳だから。………
オスは(生物学的には)いらない訳だから、男ってのはね、(後天的に)自分が
存在している理由を見つけなくちゃならない。メスは自分がいないと種族が
続かないという確固たる自信があるけど、オスにはないからね。………
(男性は)死ぬことが自分の存在の根拠の確認になれば、死ぬんです。………
(男性は生物学的に)変態です。理念(超越性)という、架空のものの為に
死ねる訳ですから。精子を出す器官としてしか必要とされないというのは
男の劣等感(存在不安)なんですよ。だから、一生懸命、ネチネチクドクド
考えて、思想家や哲学者になったりするのはだいたい男でしょう。

(岸田秀「ものぐさ性愛論」)

この岸田氏の論の建て方は随分と乱暴だし、ご自身の学説である唯幻論とも、
あまりマッチングしないような気もしますが、まあ男性マゾヒストである私から見れば
随分と魅力的な、それこそ超越的存在根拠となりそうな感じの心地よい学説ですね(笑)

子猫さまに「男より女の方が偉いんだから」とか、「男はせーえきをだすだけの
下等動物」とか責められた日々を思い出して…さいこうあふぁあうあrdwfsf;…


何らかの限定(自己に対する限定を図る措定)がないと自己自身が
拡散してしまい、何もかもなくなってしまう。しかし、架空の理念(超越的措定)
を自己の限定性として置くことは、もはやそれが架空であると分かった以上、
不可能な訳ですよ。神を信じている人間なら自発的に神の為に生命を
投げ捨てるかも知れませんが、神を信じていない人間は神の為に生命を
投げ捨てることなど出来ない。それが、無意味で無駄だと既に理解しているから。

架空でない超越的な限定とは、私が思うに、死と誕生、この二つだけです。
このことについては、ハイデガー「存在と時間」ニーチェ「ツァラトゥストラ」
などをご参照頂けると宜しいかと思います。

ハイデガーの哲学においては、死の不可避性(誕生の不可避性)が含意する
人間の有限性が、人間=現存在を本来的な存在へ覚醒させることになっていた。

………(ニーチェのツァラトゥストラにおける)幼子とは、超人という超越性
の内部に必然的に孕まれてしまう内的な決定不可能性そのものなのだ。
幼子は、純粋で根本的な肯定性を象徴するものであった。
幼子は、超越性の内に孕まれる決定不可能性を否定=隠蔽することなく、
そのままの状態において肯定し、開放する態度を表現しているのである。
………幼子とは、存在化される以前の純粋な生成である、………
20世紀の思想は、近代資本制を駆動させていた超越性が、それ自身の
否定、それ自身の不可能性と等置されてしまっていることの認識として
始まった。その後の思想と社会の展開は、その空虚な不可能性の変転
として、つまりそれが独特な形象を帯びることで逆説的な存在を主張する
過程として、理解することができるのである。言い換えれば、ニーチェが
幼子によって指示したものの変態こそが、20世紀の思想であり社会なのだ。

(大澤真幸「『不気味なもの』の政治学」)

うふふふふ…ハイデガーが…ニーチェが…大澤真幸氏が云う通りかと。

神(架空の超越性)が既に死に絶えた今、私達に私達を自己たらしめる
限定として現われ得るのは、私達の原初、すなわち幼子に戻っていくこと
においてのみであり、それは決定不可能な自然性、始まりの他者性に身を
委ねて、自らを新しい自然の中で新しい限定として生まれ変わらせること。

男性的な社会という不自然に世界が覆われ尽くされている現代において、
自然性をただ唯一代表するものは、愛すべき幼子存在でしか有り得ない。
そして始まりの他者性を代表するものは、
時空における人間存在の系譜者たる女性種族でしか有り得ない。

つまり、ロリっ子に身を委ねることだけが、時空から切り離され、
空無のなかで専制を産み出せと強要される支配者、
すなわち男性の魂を唯一救い得る希望であるのです!!

私が男性諸氏に云いたいことは、もう何もかも女性に
委ねてしまいましょう、と云うことです。

デメテル-コレー元型、時空と繋がって続いてゆく女性のアーキタイプ、
自然なる連なりこそが、男性達が自らの苦しみを自ら解き放とうとして
作り上げてきた架空の形而上学群とは違う、本当の安らぎの自然性。

男性原理が作り上げた架空の形而上学群(表象)はみな嘘である事が
明らかにされ、もはや残っているのは、表象は滅びたというのに、滅びた
表象の名残として残ったシステムだけが、男性に支配者であること、
サディストであることを強いている…何の支えもなく、空無の中から無理やりに
サディスティックな行動原理を表出することをシステムが男性に強いている。

なんで男はこんな残酷で不条理で滅茶苦茶な過去の残骸に支配されて、
存在しないものを存在するとみなす表出を行わなければならぬのか。

もう、こんなシステムは捨てた方がいい。こんなシステムは男性自身で
廃棄するか、女性にあげてしまった方がいい。女性にあげれば、
こんなシステムは廃棄されるでしょう。

Gynaikokratie(女性的な力のもの)たる社会、バハオーフェンが母権制で
描いたリュキアのような社会ならば、それはどんなにこの現代における
男性を締め付ける無限の圧迫から解放された、あらゆる「能動的であれ!」
という現代男性を苦しめる命令から解放された自由な社会であることか。

女性支配の世界に一貫するものとして、右に対する左の優位が挙げられる。
左は女性の受動的性質を、右は男性の能動的性質を示す。
マイヨル・ホノス・ラエウアウム・パルテイウム(崇高な尊厳は左側に宿る)
………父性(男性原理)が制限的原理であるのに対して、母性(女性原理)
は普遍的原理である。父性原理は自ずと狭い関係に限定されるのに対して、
母性原理は制限を知らない点で、自然の生活原理そのものである。

(バハオーフェン「母権制」)

現システム(男性的=アポロン祭儀的システム)を廃棄して
女性的=デメテル祭儀的なシステムを復活させるのが一番だと私は
思いますが、現状では、現システムが圧倒的な訳で…。

…現システム、男性主義的システムに残念ながら女性達までも毒されて
いるのが現状である以上、我々男性が従うべきは、自然の体現たる女性、
すなわちロリっ子であり、ロリっ子に全ての心身を委ねることによって、
自然の生活原理、真なる限定としての生命の有限性と世界の全体性
との連なりを、男性は回復して、生まれ変わることができるのです…。

童子は《新生児への再生(生まれ変わり)》である。つまりそれは
始原存在(誕生)であるばかりでなく、終末存在(死)でもある。
始原存在は人間が生まれる前に存在し、週末存在は人間の
死後に存在する。これは心理学的には、童子が人間の意識以前
と意識以後のあり方を象徴していることを意味する。意識以前の
あり方とは生まれたばかりの乳児の無意識状態であり、意識以後
のあり方とは死後の状態の(誕生時からの)類推による先取りである。
このイメージにゼ―レの全体性という包括的あり方が示される。………
ゼ―レは子供の中で生きている。

(C・G・ユング「元型論」)

ああ…ユングの云う通りだ…。私は砂場でひより様と砂遊びして、
魂が安らぎの中で生まれ変わるのを感じたよ…。童子の心…。

ロリっ子に全てを委ねて支配されてこそ、我々は世界のイノセンスの中で、
全体性への一体化と、自然なる限定(自己生成)を得ることができるのです。

さあ、男性の皆さん、自らの全てをロリっ子に委ねましょう――

子猫さまやひより様、ロリロリ女王様は、我が永遠なるドミナ…。

我が肉体と魂は、輝けるご主人様の元に。

参考リンク
「バルバロイ!」さん(母権制についての充実した素晴らしいテクスト群)

参考作品(amazon)
ういんどみる「魔法とHのカンケイ」

ミンク「夜勤病棟3」

岸田秀「ものぐさ性愛論」

ジョン・K・ノイズ「マゾヒズムの発明」

大澤真幸「『不気味なもの』の政治学」

バハオーフェン「母権論(母権制)」

バハオーフェン「母権制序説」

C・G・ユング著「元型論」

マルティン・ハイデガー「存在と時間」(上巻)

マルティン・ハイデガー「存在と時間」(下巻)

フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(上巻)

フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(下巻)

ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」

ドゥルーズ「マゾッホとサド」

マゾッホ「毛皮を着たヴィーナス」

ナボコフ「ロリータ」

 

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