マゾヒズム原論 −支配と服従の逆説−
幸福ではない。(求めるべきは)断じて幸福ではない。
快楽だ。常に最も悲劇的なものを求めねばならない。
(三島由紀夫「オスカア・ワイルド」)
ああ…子猫さま…。
子猫さまに踏まれ、なじられ、弄られることは
どうしてこれほどにも快楽なのか――
ああ…ひより様…。
ひより様に打たれ、蔑まれ、嬲られることは
どうしてこれほどにも快楽なのか――
うふふふふ…。私はマゾヒストなので、どうしてもマゾヒズムの
考察ということをやらずにはおれないよ…ふふふふふ…。
私はマゾであるとともにサドであり、サディズムのプレイも
行いますが、サディストであるということは、自身をあまり考察する
必要がない。サディズムというのは既に考えることを通りぬけた
確固たる基盤性がないと行えないので、既に考えることは終っている。
マゾヒストだけが考える。
マゾヒズムは考える基盤性(自己の主体)の破壊と通底しているが故。
個人的にはまずマゾヒズムの快楽は、桁が違うということを
感じることから、始めましょう…。
私が感じるに、ノーマルなセックスプレイの快楽を1と規定したとき、
サディズム的なセックスプレイの快楽はだいたい100オーバーぐらい
なんですが、マゾヒズム的なセックスプレイの快楽は、百万とか
千万とか、そういった数値では測れない領域に突入している。
一種の超えられない壁を突き抜けた向こう側にマゾヒズムの快楽は存在する。
これは一体何なのか。ノーマルなセックスプレイやサディズム的なセックスプレイ
と、マゾヒズム的セックスプレイを比較することで見えてくるものがあると考える。
ノーマルなセックスプレイの場合、そのセクシャルなコミュニケーションは、
基本的に通常の人間同士のコミュニケーションの延長として現われる。
つまりそのコミュニケーションは、相互の共通するコードの了解の上に
互いが自己のインテンション(意志)をエンコーティング(コード化)する
ことによって、疎通を図るコミュニケーション。コード化された相手の意志
をデコードすることで、共通的な了解をコード的に承認して、それを
行為として結実させる。つまり、通常の他人との接触と何も変わりません。
互いの外と外をコードによって交換させるコミュニケーション、それは
ノーマルな日常会話だろうが、ノーマルなセックスだろうが、何も変わらない。
詳細についてはシャノン「コミュニケーションの数学的理論」などをご参照を。
シンプルに云ってしまえば、ノーマルなセックスプレイは、「おはよう」とか
「こんにちは」とか、「昨日のサッカーの試合で日本が勝って良かったですね」
とか、そういった文化的コードの上で繰り広げられる外的な通信であり、
常に内面的なもの、コード化不能なものは表に出されることなく沈んでいる。
次にサディズム的なセックスプレイを見ていきましょう。
サディストは、相手(マゾヒスト)にプレイにおける主体性を委ねられる。
この時、マゾヒストのコード化不能のものがサディストに委ねられてしまう。
コード以上のものとは、コード化できないもの、内面的なもの。
コード化不能なものを委ねられること、これは非常に逆説的なのですが、
結局のところ、サディストはマゾヒストの道具(モノ)にされてしまう事態を
引き起こす。マゾヒストに対して、サディストはマゾヒストのコード化できない
ものを含めたマゾヒストの統覚的主体性を引きうけるのですが、
これはつまり、相手の超越性の担保存在になることであり、そして
相手の従属にその担保は掛かっていて、マゾヒストはいつでも担保を
引き上げられるかも知れない…それはサディストには分からない。
その結果、サディストが実はマゾヒストに奉仕している状況が発生する。
サディストにも超越的な、コード化できない快楽はあるのですが、
それは常に相手を配慮する(コード的配慮する)ことで相手からお零れ的な
減衰した超越性を受けとって自己の中にプレイにおいて吸収する形でしかない。
あと、相手に配慮しないサディズムは単純な自己完結的外的暴力行為であり、
SM(相互関係性)とは云えないものなので、ここでは論議から排除します。
「教える(サディスト)-学ぶ(マゾヒスト)」という関係を、権力関係と
混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、
そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊
に対して支配者であるよりも、むしろその奴隷である。
つまり「教える」立場は、普通そう考えられているのとは別に、
けっして優位にあるのではない。
むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、
その恣意に従属せざる得ない弱い立場だというべきである。
(柄谷行人「探求T」)
待つ者(マゾヒスト)たちが従属している待たれる者(サディスト)
こそが、待つ者たちに従属している。待たれる者の行為の
能動性・積極性を構成しているのは、徹底的に従属的・受動的な者
(待つ者)への彼(待たれる者)の従属なのだ。従属する者(待たれる者)
に派生的な自律性を産み出す支配的審級は、このような二重の
従属によって構成されているのだ。………
能動的・自律的に行為しようとするすべての者は、自身の行為の
意味を、したがってまた自分自身の存在意義と同一性を、見てきた
ような構成の中でしか――つまり、その行為の対象となる受動的・
従属的な他者の承認によってしか――確立できないのである。
このように行為する者は、普遍的に、行為が含意する関係の中で
『神』の位置を占めざるえない。神を捉えるのは、絶対者としての
彼の存在とは裏腹に、待たれていないかも知れない、という根本的な
不安である。ゴドーはこの点を、次のように表現している。
女性たちは、自分を幸せにしてくれる王子様の到来を待望している。
(男性たちは)誰もが、自分こそその王子様だと思いたいのだ、と。
『資本論』におけるマルクスの有名な脚注が指摘することは、
右に述べたことと対応する。
「この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼に対して
臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは反対に、
彼が王だから自分は臣下だと思うのである」(マルクス「資本論」)
待つ者たちは、ゴドーが神(支配者)だから待つ。しかし、ゴドーの
神としての存在を規定しているのは、まさしく待つ者たちが待っている
というただそれだけのことなのである。繰り返せば、このような王あるいは
神の立場は、行為する者が普遍的に立たされる宿命である。………
逆に、待つ側は気楽である。待つ側に立つということは彼(彼女)
の行為に意味を与える――その行為に能動性・自律性をもたらす
――他者を先取りしてしまう、ということに等しいからである。
待たれる者にとって根本的に偶有的(不確定)であった他者が、
待つ者にとってはあらかじめ確定的なものとして設定されている。
このことを、ゴドーは第2幕の中で、待つ者には、待たれる自分と
違って、「希望ってやつがある」と表現している。待つ者は、
言わばその待つという志向の強度によって、未来を現前化する。
なぜならば、待つ態度は、他者が、今ではないとしても『必ず来る』
と前提してしまうこと、言い換えれば、現在と同じ確実性を持つ
ものとみなすことを含意するからだ。
(大澤真幸「恋愛の不可能性について」)
非常に良く分かる話ですね…。私は先年、プライベートで
M女の娘と私がSとしてSM関係を結んでいたんですが、
Sであり、ご主人様である私の方が神経を凄まじくすり減らした…。
サディストであること、支配者であること、プレイの主導権を
握ること、それらをひっくるめて相手の主体性を担うということは、
物凄く負荷の掛かることなんですよ。なぜなら、相手は待っているが、
こちらには相手の待っていることに対しての適切な行為というものが
要求されていて、待たれる者として適切に行為の場へ辿りつく必要がある。
だけれど、この適切に辿りつくということがいかに大変か…。
相手は私に主体性を委ねて大満足かも知れませんが、こちらは
相手の内面を委ねられても相手の内面が覗ける訳ではない。
常に相手の心理と文化的コードを考えた配慮的な行い、細かい気遣い
を必要として、もうくたくたに疲れ果てた…。私が私の裡なる主体性
において振舞っているのではなく、相手の主体性(裡なる超越)を
背負わされて、私の主体性が相手の超越性に侵略されて、相手の
主体性に同化してしまうようなもんですよ。外から見える関係と違い、
実効支配されているのはこちら側で、疲れ果てて関係解消しました…。
さて、それではそろそろ本題であるマゾヒズムについて。
マゾヒズムは先述したサディズムの反転であり、更にそれを
超えてゆくものであると私には感じられるし、そう考えます。
反転については特に説明しなくとも分かって頂けると思うのですが、
それを超えてゆくものとして、超越性への跳躍、死との近接的関係性
がサディズム側にはないマゾヒズム側の特徴としてあり、それが
マゾヒズム的行為に究極の超越的な突破した快楽を与えていると思います。
勿論、マゾヒズムはエゴイスティックに慎重なコントロールがされており、
マゾヒストは決して自殺志願者ではありませんが、それでも、マゾヒズム
の根幹的な部分に、主体の放棄、自意識の放棄、プリミティヴに胎内回帰
してしまいたい、という時間への逆行意志としての回帰願望があることは
否定できない事実であると私は実践的マゾヒストとして感じるところです。
マゾヒストは何を望んでいるのであろうか。マゾヒストが求めているのは、
殴られ侮辱される空想を演じることができる、コントロールされたシナリオ
である。これは当てもなくぶらついているうちに危険な状況に陥るのとは
ずいぶん違う。マゾヒストは、殴る人物(サディスト)が、(SM)ゲームの
ルールを心得ていること、止め時を心得ていることを確かめる。………
(マゾヒズムにおいて)試みられる美学的解決とは、合理性の断片化
という重みのもとに解体してゆく主体の美学である。ザッヘル・マゾッホは
主体が消滅する瞬間、主体は全体性を得ると空想する。このような空想を
(マゾヒストは)心に抱きながら、(マゾヒズムにおいて)あらゆる形の合理性
が操作され、倒錯させられ、パロディ化される。純粋思想の合理性は、
殉教の合理性、観念論、超官能性となり、欲望を身体と対立させる。
道徳的行為の合理性は、性的暴力という快楽主義的倫理に変わる。
そして、美学的判断の合理性は、主観性の沈滞、すなわち自己破壊と
主体性の存在喪失を巡る永遠の瞑想(死への近接)へと変わるのである。
………それ(マゾヒズム)は、バウマイスタの言葉を借りれば、
『自己であることの重圧から逃走しよう』としているのであり、
それが歴史上どのようにあったかは、自己であること、
文化的アイデンティティの重圧が、とりわけ過酷であった
ような社会に捜し求めるべきである。………
マゾヒズムの問題は、主観性の為の闘争が、主体を構築し、
主体を消滅させる為のテクノロジーに近づき、それをコントロール
するための闘争になりつつあることをわれわれに教えてくれる。
(ジョン・K・ノイズ「マゾヒズムの発明」)
上述、主体コントロールとしての主体放棄は極めて重要な示唆かと思います。
主体に縛られている限り、全てはコード化されていて、内的なものは常に
圧迫を受けている。それを解放する為の方法としてマゾヒズムはあるかと。
そして、同書の以下の部分で指摘されている通り、主体の放棄は幻想として
機能し、ゆえにそれは幼年期の回帰願望としての空想、主観性における
時間操作による自然性への回帰の空想として育まれるかと思います。
マゾ的衝動は受動的である為、空想が最も重要である。
ライクは、道を歩いていて、見知らぬ女に突然人違いされて殴られた
マゾ男を例に用いる。ライクの主張によれば、この場面をエロス化
するためにあらかじめ必要とする空想が作動していないので、
(女王様に殴られたら歓ぶであろう)この男はこの事件から
何の快感も得ない。………
マゾヒズムに関する限り、行動ではなく、始めに空想ありきなのである。
………マゾヒズムはエロス的空想を意図的に演じることによって、
そこで主体は自分自身の挫折を演じる。マゾヒズムには戦略的
執行機関、作戦本部の要素が含まれている………
マゾヒズムは何度も演じられ、主観性の社会的立場が構築される
過程、すなわち子供が親を介して社会的権威を内在化する過程を
反復しているように思われる………
マゾヒズムを演じるためには、主体の時間性を操作する必要がある。
………マゾヒストは世界を支配する。マゾヒストは苦痛が避けられない
という認識を逆手に取り、主体の時間性を操作し、そのようにして
期待のサスペンスを引き伸ばしながら、不快の中の期待という弁証法
を創り出すのである。言い換えれば時間――したがって歴史自体
――の絶対的支配という看板の元で、マゾヒストと彼自身の歴史性
との関係性が演じられるのである。………結局、マゾヒストは彼自身
の主体の経済の求める範囲内で、(己の)歴史を書き直し、
提示し直し、したがって、美学化しているのである。………
(マゾヒズムの欲望の)死は、身体を歴史の枠内に位置付け、
社会という世界に求められる身体の犠牲とは何かを定義する。
死は主体の内部と外部、人間の身体と世界、歴史の中の
執行者と歴史、分析者と彼自身の人生、それらのあいだに
微妙な境界線を引くのである。
(ジョン・K・ノイズ「マゾヒズムの発明」)
私は上述は非常に優れたマゾヒズム理解だと思いますが、
ちょっと分かりにくい書き方がされているかも知れませんね。
私の理解の範囲で非常に簡単に云ってしまいましょう。
マゾヒズムとは…
「子供に戻ること」
です。胎内回帰して胎児に戻った上で更に逆行すれば消滅してしまい、
それは死と=ですが、マゾヒズムの逆行はそこまでは戻らない。
マゾヒズムは主体の枠組が位置付けられるぎりぎりの時点まで
回帰して、主体の枠組の位置付けを自己の空想のシナリオ通り
にやりなおすことを欲する。主体が消失するのは、実は無理です。
主体消失の時点に戻ると、それも死と=であり、何も感じられない。
故に、マゾヒストは、過去の限界点を目指して時間を操作して逆行する。
人間の普遍的な悲劇の宿命の始まりの時点へと目指して突入する。
云うまでもなくサディストとはマゾヒストにとって原初の
枠組作成執行者たる『親』の表象に当たります。
この『親』は、アイデンティファイを迫る『外部』や『社会』とも云い換えられる。
マゾヒストは子供に戻って、そこで子供として親に懲らしめられることで、
自己を再構築的にアイデンティファイして自己の中の主体の苦痛を快楽に
創り換える。そこで始めて、自らの根本的な超越性、通常は変更が不可能な
コード化できない内面をドラスティックに変化させ、回帰的なものを復元する。
これは外的コードの向こうにある自己の超越性の領域への突入と
自己の超越的なものを組替え、創り換える行いであり、そこに
マゾヒズムの信じ難い程の言語に絶する極限的な快楽の基がある。
ただ、ここで重要なのは、最初のアイデンティファイ、すなわち通常の
意味での生育は必然的な自然性に支配されているということです。
その自然性をマゾヒストの空想で代理するのは限界が存在する。
空想の不自然はどうしても、再構築する場の底が浅くなる事態を発生させる。
それは語り得ない快楽をどうしても減衰させる。
けれど、その空想の不自然性を自然性でカバーすることはできる。
つまり、サディストの選択において、空想であるがゆえに一回目と違い、
なおかつ必然的な自然性を持っている人物を選択すればいい。
それは、自然性を体現する支配者的人物、すなわち――
ロリっ子女王様に他ならない!!
ロリっ子女王様の自然性において、マゾヒストの空想と、
場における自然性の両方が回復され、究極の快楽が訪れる。
その時、根源的な超越の再構築再編成が自己の主体の限界領域を
突破した基底層の更なる突破先、人間の果ての向こう、自然と不自然
を超える自己-世界の果ての先で実行され、究極を超えた快楽が…。
あああああ、子猫さまァァァァァァ!!ひより様ァァァァァァァ!!
童子たる自然なるドミナ、子猫さまや、ひより様の下僕となって
自己が空想と自然の両輪によってそれ以上に組み換えられるとき、
自己はコード化領域など比較にならない超越的深層が変更され、
語り得ない、畏るべき、快楽を超えた情動、精神を超えた意識、
魂を超えた超越が――
訪れ…
ああああああああああ…
うはあああああ
こ こねこさまあああ
参考作品(amazon)
ういんどみる「魔法とHのカンケイ」