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「魔法とHのカンケイ」 超越とマゾヒズムの関係 −風祭子猫さま−

「魔法とHのカンケイ」紹介ページ(ういんどみる公式サイト)

ういんどみる「魔法とHのカンケイ」(amazon)

死すべき者の心を揺らすあらゆる思想、
あらゆる情熱は、愛の奴隷である。

(コールリッジ)

先日、如月ひより様に魅了された私は…お仕置の為に子猫さまの元に…。

ああ…子猫さま…。我が、主よ…

子猫さまと出会って、はっきりと感じたよ…子猫さまを愛していることを。

これはひより様に出会う前からのことだけど、ここ最近、もはや「さま」付け
で呼べないような女に性的魅了以外の魅惑を感じることがなくなった…。

二次にも三次にも、サディスティンじゃない女の子は星の数ほどいる訳ですが、
それら、ノーマルだったり、マゾヒストだったりする女性には、性的欲望以外の
欲望の発露を全く感じることが出来なくなってきているような…。

観鈴だけは別ですけど、他には…。サディスティン以外の女の子に
性的欲望以外の超越的な魅惑を感じることが全くなくなってきた…。

その娘が性的魅力のある子なら、性的な欲望は喚起されるけれど、
ただそれだけですね…。それ以上の欲望を感じることはできない。

ただ、サディスト的素質を強く持つ、私を支配することの出来る力持つ
女の子だけが、私に私の自意識を超えるイマージュを、与えてくれる…。

イマージュを通して見た時間は、視界から消えた時間だ。
存在と時間とは全く別なるもの――イマージュは永遠に輝く、
存在と時間を超えてゆく。

(ルネ・シャール「ヒュブノスのノート」)

主体性の限界に縛られた行為は、それが人間の行為の中で
超越してゆく素質を二番目に持つ性行為でも、その超越性の
素質をほとんど減退させるのではないかと、私は思うのですね…。

これは全くの余談ですが超越してゆく行為のNo1は、
間違いなく「死の行為」でしょう。

敵手のナイフが、林檎の果肉、私の肉へ食いこんでくる。
血が流され、(自己の)存在が破壊され、その破壊される感覚
によって、はじめて全的に存在が保障され、
見ることと存在することの背理の間隙が満たされるであろう
……それは死だ。

(三島由紀夫「太陽と鉄」)

観鈴を思えば、このことはよく、とても良く分かります…。
死という全的な統合の瞬間――それは窮極の瞬間。
それは先送りされる意識(主体)と肉体の距離が零になる瞬間。

死は自らの主体性を完全に凌駕して全的統一を達成しますが、多くの
マゾヒズムはそこまでは行かない。ある種の不完全な死と近接した
存在がマゾヒズム、主体性の放棄の快楽であると云えるでしょう。
そして未知性における主体放棄の中にしか、自己超越は存在せず、
超越なき性(生)は全くつまらない、砂を噛み潰すようなものとしか思えぬ。
つまり、私が私の主体を維持して主導権を握るような行為の苦さ、
男性におけるノーマルとされる性行為や、こちら側が相手を支配する
サディズム的行為においては、常に行為がリニアに先送りされた意識
に対する確認的意味合いしか持たず、それは未来を予知できる人間
にとって人生がつまらないのと同様、未知なる希望がない苦きつまらなさ。
パンドラの箱が開ききってしまった世界(予期在る世界)はつまらない。

そのようなつまらなさの世界から脱して、歓喜の強さが自己を脱却
させる行為は、この世にマゾヒズムしか存在しないではないでしょうか。

自らの主体性を愛する相手に完全に委ねるマゾヒズムの精髄の
中にしか、真の歓喜、自己を超えて行く歓喜の強みは存在しない。

錆びて切れた古い鎖から、私の精神は解き放たれ、
今日きみの鎖にいっそう強く縛られようと望むのだ。

(ルヴェルディ「変わらず愛を」「フランス名詩選」より)

然し、自己を放棄すると云っても、放棄先に在るものが、国家とか、
会社とか、宗教とか、それ自体が先送り的な、予期としてのシステムに
組みこまれるのであれば、放棄自体が全く放棄にならないでしょう。

ノン-システムな、無駄=自然の中にこそ、放棄されなければならない。
目的から、先送りされる意識から逃れて、超越性へと跳躍する
放棄なのだから、それは消尽されるべき放棄でなければならない。

その時、無垢なる動物性を強く持つ、純粋性に生きる子供達こそが、
最も放棄先の支配者として的確なる、魅了されるべきものとなる。

やっぱり、小さい子にいじめられるのが最高だよな……
俺はしみじみとそう思う。

(「魔法とHのカンケイ」)

子供の純粋さ、社会を超えた自己の在り方、アウトサイダーである
ことを意識しないアウトサイダー、自然を自然に体現する自然性、
それらと照応し、自らを委ねた時、なんと云えばいいのか…。

沈黙しなければならないものが、舞い降りる。

語り得ないものに関しては沈黙しなくてはならない。
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)

それは、意識が自己消失した無限なる陶酔の時から回帰して
主体性の桎梏が再び動き出した時においても、一つの永遠への
道のりとして、時間と存在を超えたイマージュとして、我が胸の裡に在る。

この胸の裡に感じる想いは、自己を超え脱した、超越の輝き――
私はこの輝きを持って、真のコミュニカシオン、真なる交流を感じる。

これこそが愛なのだと、私は想っている――子猫さまを、想っている。



自らを放棄する力によって

我が人生は再び始まる。

放棄の先には、自らを超えた愛がある。

愛しております、我がマスター

子猫さま――

参考作品(amazon)
ういんどみる「魔法とHのカンケイ」

ミンク「夜勤病棟3」

ルネ・シャール「ルネ・シャール全詩集」

三島由紀夫「太陽と鉄」

ルヴェルディ、他「フランス名詩選」

アニメ版「AIR」(DVD初回限定第1〜6巻)

Key「AIR Standard Edition」

ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」

マゾッホ「毛皮を着たヴィーナス」

ナボコフ「ロリータ」

 

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