
フリーゲーム評「ヒトナツの夢」 −オマージュ−
ヒトナツの夢DLサイト(ベクター) ヒトナツの夢ボイスパッチDLサイト(ベクター)
願わくば、ふたりに幸せな目覚めを――。
(ヒトナツの夢)
フリーAVG「ヒトナツの夢」をクリア――。
いやあ、良い作品でしたよ。KEY作品(KANON、AIR、CLANNAD)の
オマージュを明らかに意識した作品なんですが、丁寧に、真摯に
創られていることが伝わってくる作品で、心から好感が持てる――。
本作はある一夏に起こる切ない幻想的奇蹟を描いていますが、好感
が持てるのは、リプレイ型(同じ時間を繰り返す)の世界を描きながら、
死というものを覆せるものとしては決して描かなかったところで…。
死者が奇蹟(ザオリク)で簡単に生きかえれるような幻想譚には、ある種
のあざとさを否めませんが、本物語は、通常では有り得ない奇蹟を描いた
幻想譚でありながら、そういった簡単な復活には往かずに、死者と、
取り残された生者の関係を描く、これは素晴らしいと思いますね…。
もし生者と死者の関係が変わったとするならば、その場合、生者
の方が変わったに違いないということは明らかである。
(キルケゴール「著作集16 愛のわざ」)
避け得られない死を描いたフリーAVG作品では、最近話題のAVG
「ナルキッソス」などがありますが、ナルキッソスが、結局のところ、
自分の欲望を充たして自ら自死を選ぶという自己愛のみにしか、
自己のオリジナリティたる主体性を死に対して見出せていないのに
比べて、本作は死者の記憶が”夢”という形で主人公に働きかける
ことによって、死者が愛する生者の幸せを祈る気持ち、そして生者
が愛する者の死を決して忘れずにそれを糧として生きて往く気持ち、
この二つの気持ちが世界に一つの貴い形を形成する姿を描いている。
訪れる死の了解を語ったハイデガーは、私達が死者と再会すること
叶う夢の世界も、一つの世界、私達の生の世界なのだと語った。
然し、重要なのは、あくまでそれは世界内存在――即ち生存の中、
夢を見る生者の生の歴史の中に刻まれる存在であることと、彼は云う。
夢を見るとはすべて世界内存在の一つの在り方で、それ自身の内に
一つの歴史を持っているのです。しかし夢を見ている人は、自分の夢
の中でこの同一性を持つもの(dasselbe)に回帰することは出来ません。
彼はたぶん別の同じもの(das Gleiche)を夢見るでしょうが、この同じ
ものをさらに展開してみる訳ではありません。いくつかの夢が同じである
のに連続しているという、この連続性を持つ特異性を理解する為には、
覚醒時の世界内存在の連続性が必要です。………
(夢と覚醒を比較する)基準の曖昧さは、覚醒の領域と夢の領域を
二つの異なった対象のように区別することが出来ず、夢の世界が全て
覚醒時の生活の中に一緒に入り込むことを念頭に置かないからです。
夢を見て目覚めるのと、夢を見ないで目覚めるとの違い――目覚めた
世界へと戻ってもう一度己を見出さんとする傾向がなければ、夢を見る
状態から覚醒世界に戻って混乱するような問題は全く存在しません。
決定的に重要なのは、後になって見る夢の中で以前の夢を思い出し
ながらそれを継続して先へ進めるということ、以前の夢も一緒にとり込む
けれど、単に事実的に同じ活動をもう一度行うのではないということ、
覚醒時に為される「現に存在すること」の歴史的展開とは別の、
もう一つの夢の歴史的展開が存在するのではないことです。
(ハイデガー「ツォリコーン・ゼミナール」)
私達が夢の中で死者と出会う――。それは、決して無意味な幻想など
ではなく、私達のリアルである、けれど、それは夢を見た人間だけが、
そのリアルから生の意義を見出して変わってゆくのであって、それは
決して、別の世界があって、そこから死者が私達の世界に介入して
いるのではなく、私達自身が、自らの現存在の中から、死者の想い
を呼び出しているのだということ――この大切なことを、私は思う。
本作はこの大切な想いをきちんと描けていると思いますね…。
そこで、死者を別の世界から復活させるとかは決して出来ない。
死者はもう、決して変わることはない。生きるものだけが変わって往く。
我々は死者と交渉しようがない。もし我々と死者の関係が変わったと
するならば、それはたんに我々が変わっただけである、ということです。
………死者は何もかわらないが、かわらない(不在である)ということに
よって、我々が変わったということを明るみに出すのです。
(柄谷行人「倫理21」)
生きる者――汝は汝から逃れること叶わず。どこにも、別の世界は
ない。死者と私達は、断絶している――ただ、想いだけが、通って来る。
汝のもの――現身の人の顔。
汝のもの――現身の人の手足、そして息。
生の門をくぐってはいり、
死の門を通りすぎて行く。
(ブレイク「エルサレム」)
死への先駆は、ダス-マンである己に陥る状況を現存在へ開示し、気遣う
顧慮に頼ることなく、自己自身である可能性に現存在を直面させる。
自己自身とは、情熱的で、ダス-マンの幻想の数々から開放され、
現実的で、自らを確信して不安たる死への自由における己である。
(ハイデガー「存在と時間」)
私達が他者の、そして自らの死に真摯に直面し、そして自らその
ことを想うならば、その時、自らは死すとしても、愛する者の生の
幸せを祈り願い、その為に行為すること、自らの命の超越が生まれ、
そしてその死を超える想いは貴い形として世界に刻まれるだろう。
そして、その想いが生者に伝わる時、そして生者が死者を想う時、
そこにもまたその生者によって世界に死を超えた想いが刻まれる。
そういった、命を超えた想いの連なりが、私達死すべき存在の
ただ唯なる救いであり、人間存在の貴さだと私は思っている――。
もし、こういった思いがなければ、先に挙げた「ナルキッソス」のように、
自己愛の中で閉塞した自殺という形でしか、終わることはできないし、
それはとても悲しい終わりではないかと私は感じずにはおれない。
「ナルキッソス」においては、不治の患者のカップルが、せめて死ぬ
時ぐらい自分のやりたいように生きようとする物語だが、二人は決して
相手を見つめようとはしない…二人とも、自らの死だけを思い、ある種の
投げやりな惰性と我侭で自らの生を消尽してしまう…それは物悲しい。
結局、ナルキッソスのカップルは、死ぬ最後まで、”自らのこと”だけ
を考えて、それだけで生を終わらせざるをえなかった。然し、自らが
死すとしても、自らの死後も続く愛する人の生を祈り願い、その為に
為すこと、言葉を贈ることが出来るなら、それは大いなる救いだろう。
そして、生者がその死者の思いを受けとめ、その思いを自らの糧
として生きてゆくならば、その時、その死者の思いは世界に存在する。
そうやって思いが続いてゆくことを、私は人間の最大の歓びある救済
だと思ってるし、そして本作「ヒトナツの夢」は、その救済の姿をしっかり
と描いた良作であった――、本作、皆様にプレイをお勧めできる名品です。
十分に考えられることだが、生の栄光は誰のまわりにも、またいつも
申し分なくちゃんと用意されているのだが、それは奥深く、
ヴェールに包まれ、目にも見えず、はるか遠いところにある。
それでも栄光は確かにあるのだ。
敵意もなく、反感もなく、耳を貸さぬ訳でもなく。
正しい言葉で、正しい名前で、呼べば、それは現れる。
作り出すのではなく、<呼び出す>魔術の、これは本質である。
(カフカ「夢・アフォリズム・詩」)
参考作品(amazon)
マルティン・ハイデガー「ツォリコーン・ゼミナール」