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(本文は「ひぐらしのなく頃に解 目明し編」の内容を超ネタバレ注意!!)

ゲーム評「ひぐらしのなく頃に解 目明し編」

−JUDGMENT−

「ひぐらしのなく頃に 紹介ページ(公式サイト)」

「ひぐらしのなく頃に 雛見沢村連続怪死事件私的捜査ファイル(amazon)」

なぜ人を殺していけないか。
これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。
道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。
ほんとうの答えは、はっきりしている。

<重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない>

――だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。(中略)

だが、ほんとうに、(道徳哲学が説くように)最終的・究極的に、
殺される方の身になってみるべきなのだろうか。
自分その悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。
このように問う人は、まずいない。
だが、ニーチェはそれを問い、
そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。
だからニーチェは<重罰になる可能性をも考慮に入れて、
どうして殺したければ、やむをえない>と言ったのである。
彼は、<やむをえない>と言ったのではなく、究極的に
<そうするべきだ>と言ったのである。
そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、
究極的には、介入させてはならないのだ。
そうニーチェは考えたのだと思う。

(永井均「これがニーチェだ」)

「ひぐらしのなく頃に解 目明し編」をクリア。

物語の主題である連続殺人の犯人は私の推測通り、
本作の主人公である園崎詩音でした。


まあ、基本的に私が以前推理した通りの内容でしたな…。
語り手=犯人という簡単な事象、
全ては超探偵である私にとって自明の推移…ふっ。
(安楽椅子にゆったりと腰掛けながら、ふぁさっと自分の髪を漉く)

いよいよ我が直感の天才に対して自信を深めましたよ…
ああ、惜しいですね!!私が鬼ヶ淵に招かれていれば、
我が冴え渡るシックス・センスによりこの忌まわしき事件の全貌を
瞬く間に明らかにし、悲劇の連鎖を食いとめられたでしょうに!

鬼ヶ淵にとっての悲劇、それは私が現場にいなかったことですな!
事件の解決には私の超感覚が必要不可欠だったのですから…。

まあ、私のセブン・センシズの話はこれくらいにして、
では、いよいよ、本作の本題を見ていきましょう。

まずは、今回明らかになったことを簡単に纏めましょう。

・物語の主題である昭和58年の連続殺人の犯人は園崎詩音。
彼女は実は生まれた時は園崎魅音であったが、小さい頃に
入れ替わり、運悪くそれが、入れ替えを防ぐ為の儀式の日
だった為、そのまま入れ替わったままになっている。

・園崎詩音は、魅音を監禁して魅音に成りすますことにより、
周囲の目をくらまし、殺人を実行した。

・動機は、恋人である北条悟史を鬼ヶ淵の祟り殺人システム
によって殺害されたことによる復讐。

・鬼ヶ淵の祟り殺人システムは、村の邪魔者を村に祭られる
神である「オヤシロ様」の祟りとの名目で殺害していくシステム。

・祟り殺人システムにおいては、殺人幇助という意味合いでは
村ぐるみで殺人が行われているが、実際の実行犯の一人は古手梨花。
古手梨花は、特殊な薬物を所有しており、この薬物を
使用して人々を襲い次々と殺人を犯していたと推測される。

・古手梨花が所有する薬物は、薬物を注入した人間を
自殺に見せかけて殺害できる上(薬物を注入した人間は強制的に
自分の喉を自分で破壊して自死)、薬物反応が全く検出されない
というとんでもないマジック・アイテム(笑)

・古手梨花をオヤシロ様の生まれ変わりとして狂信的に崇拝する
村の古老グループが梨花の殺人を補助したと推定される。

という感じですな…。

今回、犯人である園崎詩音は次々と連続殺人に手を染める訳ですが、
思考が基本的に近代的な合理思考なので、狂信による殺人者である
鬼ヶ淵の連中に比べると、正直云って、共感できるタイプのヒロインです…。

古手梨花のような、外部には理解できない土俗宗教的な理由で
殺人を行っていると思われる連中に比べ、詩音の殺人動機は
理不尽な理由(土俗宗教に基づく意味不明な理由)で殺された
恋人の復讐の為の殺人であり、私にとってはこちらの方が
前者の理解不能さに比べ、遥かに理解と共感を覚えるものです。

詩音の動機は、祟りシステムを使って、不条理な理由で殺人を
毎年繰り返して行く鬼ヶ淵への復讐であり、その復讐として、
実行犯かつ祟りシステムの中枢に存在する古手家(古手梨花)、
外部に圧力を掛け、警察に捜査させないことで殺人を幇助する
園崎家(園崎お魍・園崎魅音)、村を狂気の旧習で纏めあげる
公由家(公由喜一郎)という、祟りシステムの中枢に位置する鬼ヶ淵御三家
(古手・園崎・公由)の一族の殺害を目的にしており、これは
道義的に見て、許される殺人だと思いますね…。

彼ら御三家は法の手を逃れ、土俗宗教の狂気によって次々と
殺人を繰り返す恐るべき殺人一族であり、彼らがいなくなる
ことで、この異常な連続殺人劇の幕が降ろされるのならば、
それは長い眼で見れば、とても人々の為になることです。

園崎家が強い政治力を持って警察を握っている以上、
法の助けは期待できない。そのとき、自らの手で、自ら殺人犯
となることで、罪の裁きから逃れて理不尽な殺しを繰り返す
殺人者ども(御三家)に復讐の裁きを与える志を誰が咎められるというのか。

詩音と同じく、私も、法を超えて、自らを信じています。
私は法を超えた正義を信じているし、もし自らの愛する人が
殺され、犯人が法では裁けずにのうのうとしているのならば、
詩音と同じく自らが罪を裁かれることを覚悟して、
復讐に乗り出しますよ。

人間にとって本当に大切なことは、法を超えている。
法はその「本当に大切なこと」と一体として機能するべきもの、
すなわち、「裁き」のシステムでありますが、もし、そのシステムが
本来は裁かれるべき邪悪が持つ権力によって正当に機能しないのならば、
自ら自身が一人の復讐者、裁く者となって、法に代わって裁きを与える――
これは、道義的に肯定できることだと私は心の底から思っている。
私は、法よりも、自らの道義の方を、上位に置いている。
そして、本作で描かれる彼女(詩音)もまた同じだった…。

彼女(詩音)の犯した連続殺人は、ただ一件を除けば、
道義的に許されてしかるべき殺人です。

然し、ただ一件は…どうしても許しがたい殺人だ…!

彼女は五件の殺人を犯します。
園崎お魍、園崎魅音、古手梨花、公由喜一郎、そして北条沙都子。

お魍、魅音、古手、公由は、土俗宗教に基づく共同体狂信を
理由に殺人(殺人幇助)を繰り返してきた連中であり、
一切の酌量の余地はありません。
裁きの死が与えられるにこれほど相応しい連中はいない。

特に古手梨花に至っては、殺人の実際の実行者として、
詩音を殺そうと襲いかかってきてきたところを、運良くなんとか
返り討ちに出来たのであり、完全な正当防衛すら成立する。

然し…北条沙都子に対する殺人だけは、同意できない。
沙都子を殺した理由は、結局のところ、詩音が愛する
北条悟史の妹であり、悟史が真に愛しているのが沙都子
であったことに対する激しい嫉妬心であり、
殺人の理由としては、私は全く肯定できないですね…。

ゆえに、この殺人だけが、詩音に対する共感を削ぐ。
これは明かに意識的に物語内で組み立てられているのは、
クリア後に見られるスタッフ・ルームの後書きから容易に
察しがつくことです。殺人犯である詩音に対する過度の
共感を防ぐ為の仕組みとして、取り入れられている。

道義道徳はそれぞれの個人によって違うもの。

私は、沙都子への殺人は肯定できないけれども、
彼女(詩音)が最後、罪の重さに耐えかねて発狂して
自殺するのは残念です。

愛する人を殺された復讐の為に彼女が殺した連中の大半は、
死の裁きが与えられて然るべき邪悪であった。

お魍、魅音、梨花、公由、この狂信的殺人集団鬼ヶ淵の
中枢メンバーが死んだことにより、土俗宗教による理不尽な
殺人が祟りの名で繰り返される可能性は著しく減少しました。

お魍、魅音、梨花、公由、彼ら土俗狂信的殺人者たちは、
殺人が悪いことだと全く思っていない。
彼らはオヤシロ様信仰に狂い、狂信的理由に基づき、
何の心の咎めなく人を殺すことを肯定する。

特に、梨花は祟りシステムにおける個々の殺人の
実行者と推定され、全く酌量の余地はない。

然し、詩音だけは違う。
彼女は、近代的に思考する。自らの意志を何より貴ぶ。
祟りシステムの狂信者たちが盲信する
宗教なんてものは彼女の意志の埒外にある。
彼女は土俗的な狂気による人殺しを狂った悪だと思い、
そして殺人教義である鬼ヶ淵のオヤシロ様狂信を嫌っている。
そして、自らの意志で、自らの愛する人を奪った
鬼ヶ淵の連中に対して、裁きを下してゆく…。

彼女の最後の自殺…アガサ・クリスティの「カーテン」を
思い出しました。名探偵エルキュール・ポワロの最後の事件――
私は、ポワロが好きで、そして詩音も好きですね…。

沙都子に対する殺人だけは、その罪を免れないけれど、
それでも、その罪を確りと引き受け、詩音には、
強く生きて行って欲しかったな…と私は思います。

私にとって、彼女のような、自らの意志で、自ら自身の道を統べる、
あらゆる社会価値を超えて、自らの人生を自ら生きる
覚悟ある強い女性は、とても好ましい女性ですからね…。

最後に、永井均先生の文章を引用させて頂き、
本文を締めさせて頂きます。

「世の中には色々な理由で殺人を犯す人がいる。
そういう人は、殺人が道徳的に悪いことだということを
知らないわけではあるまい。
殺人はいけないことだとずっと思ってきたに違いないし、
殺人を犯した後でさえ、そう思っているだろう。
でも、彼は、それを行った。
なぜだろう。そういう道徳的根拠を凌駕するような、
もっと強い動機を持ったからだろう。
道徳は彼の殺人行為をおしとどめることはできなかった。
道徳は考慮された上で捨てられたのだ。
それなのに、その行為が道徳的に非難される
なんてことが、どうしてできるのか。(中略)

このことから、僕はこう考えた。
道徳が存在する世界では、行為者は当然、
その存在を前提とした考量を行うだろう。
考量の結果が、道徳に適することになるか
反することになるかは、場合によって違うだろう。
そして、それはやむをえないのではないか、
それでいいではないか。
結局のところ、それ以上のことはできないし、
する必要もないのではないか」

(永井均「<子ども>のための哲学」)

参考図書(amazon)
「ひぐらしのなく頃に 雛見沢村連続怪死事件私的捜査ファイル」

永井均著「これがニーチェだ」

永井均著「〈子供〉のための哲学」

アガサ・クリスティ著「カーテン」

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