AIRとリア王 −悲劇−
男はそれからいろんな手を尽くそうとした。
けれど、悲しみは留まることなく、押し寄せてくる。
あらがいようもなく…そしてついに男も倒れた。
(Key「AIR」)
今日はAIRをプレイし、片手にはシェークスピア悲劇を持ちて
読んでいたのですが…。リア王を読んで…胸が切ない…。
観鈴、リア王の娘コーディリアに似てますね…。ああ………。
リア王が、嘆く最後のシーンで、涙が溢れたよ…。
「可哀想に可愛いお前が絞め殺された!
ない、ない、命がない!
なぜ、犬や馬や鼠に命があるのに、
そなたには息がない?
そなたはもう決して生き返らぬ、
もう、決して、決して、決して!
どうか、このボタンを外してくれ!
これが見えるか?
この子を見ろ!この唇を!」
(シェークスピア「リア王」)
…私の愛する彼女、観鈴のことが…
…私の胸を熱く満たして…。
AIRを決定的に運命付けているのが、観鈴の運命であり、その運命に、
なぜ、MOON.やONEやKANONやクラナドのような回復がないのか、
AIRの穿つ世界の傷は他作品とは違い、穿たれれたままなのかが、
私達にとって最も深い、真なる存在論的在り方を齎してくるでしょう。
MOON.は傷が回復する。邪悪な宗教組織FARGOの壊滅と、
その戦いで亡くなった少年の子供を主人公が孕むことによって。
ONEは傷が回復する。女の子達が想い続ける愛情の絆が
主人公を再び生の世界へと引き戻す。
KANONは傷が回復する。夢の目覚めにして生への帰還は、
街の時を再び刻み始め、新しい彼らの時間が、また刻み始める。
クラナドは傷が回復する。人々の想いと、自然の力は、
傷ついた物語自体を癒して、新しい物語として再生する。
ただ、AIR、AIRだけが…。
「だが、まだここまでは理解できる。だが、一切が
平静と平和と秩序を回復し、リア王は理性を回復し、
善きものの象徴のようなコーディリアと和解し、
全てが良い方向へ向かっていくと思われたその瞬間、
リア王は彼女の遺骸を抱いて現われ、彼自身も死んでゆく。
なぜ、彼女は殺されなければならなかったのか。
なぜ?
人間を超えたなにものかが存在する。
反秩序を、悪を粉砕するとともに、
秩序をも善をも粉砕する力が存在する。
それは運命なのか。
人間の理解を超えた神の摂理なのか」
(平井正穂。「世界の文学第二巻 イギリスT」より)
ああ…。
もしも、MOON.やKANONやクラナドのように、
傷が回復するのならば…
国崎往人の力によって、観鈴は癒されただろう。
AIRの最終章「AIR」は全く違ったものになっただろう。
だが…。
なぜ、なぜなのか。
私が一つ云える事は、MOON.やKANONやクラナドのなかを
流れる物語源流としてのロマンチシズムがAIRに存在しないこと…。
恩寵と悔悟の不在。
ロマン主義における恩寵と悔悟、
簡単に云ってしまえば、神的(形而上学的)奇蹟は、
世界を我々が耐えられるような形で装飾するが…。
AIRにはそれがない。リア王にもそれがない。
そして、世界の本質性が開示される。
「神々に向かって、エディプスはなぜあのような苦悶を
受けるべく選び抜かれたのかとか、マクベスはなぜ
戦場からの帰途にあのような魔女達にあったのか
と問うことは、声なき夜の闇から理由と弁明を求める
ことなのである。答えはない。あるわけないではないか。
もしあるとすれば、議論の対象は寓話や教訓譚が
扱うような正当であるか不当であるかという苦悩
であって、それは悲劇ではないであろう。
悲劇的なるものの彼方には、何か別の時空において
成就される《ハッピー・エンディング》などはないのである。
悲劇の規範には、(その悲劇に対する)償いなどありえない」
(ジョージ・スタイナー「悲劇の死」)
ロマン主義の恩寵と悔悟は、奇蹟的(形而上学的)な別の時空を捏造する。
それは、レベルの低い物語においては、実際の物理的救済(恩寵)
として現われるが、より高度な、洗練された、優れた物語ほど、
悔悟による恩寵が現われる。精神が、目の前の悲劇を、抹殺するのだ。
そして、それは、ルサンティマンそのものなのだ…。
悔悟する精神が、救済される、それは、悲劇の意味を失わせ、
生の意味自体を失わせるだろう、なぜならば悔悟する魂の救済
において、そこに超越的な価値の捏造が行われているからだ。
スタイナーやニーチェやドストエフスキーが指摘したように、
それは、悲劇ではなく、寓話であり教訓譚に過ぎないのだ。
なぜなら、世界から眼を逸らさない人間の取り組みを描くことこそが、
悲劇の本質であるのだから。
「おまえは子供が好きか、アリョーシャ?わかってるよ、好きなのさ。
だからいま僕がどういうわけで子供のことばかり
話そうとするか、おまえにはちゃんと察しがつくだろうよ。
で、もし、子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを
受けるとすれば、それはもちろん、自分の父親の身代わりだ、
知恵の実を食べた父親の身代わりに罰せられるんだ――
でも、これはあの世の人の考え方で、
この地上に住む人間の心には不可解だ。
罪なき者が、他人の代りに苦しむなんて法はないじゃないか。
まして罪なき子供が!こう言ったら驚くかもしれないがね、
アリョーシャ、僕もやはり子供が好きでたまらないんだよ。………
五つになる小っちゃな女の子が両親に憎まれた話というのがある。
その両親は『名誉ある官吏で、教養ある紳士淑女』なんだよ。………
あらゆる人間の中には野獣が潜んでいる。
それは怒りっぽい野獣、責めさいなまれる
犠牲者の泣き声に情欲的な血潮をたぎらす野獣、
鎖を放たれて抑制を知らない野獣、
淫蕩のためにいろいろな病気――
足痛病だとか、肝臓病だとかに取っつかれた野獣なのだ。
で、その五つになる女の子を教養ある両親
がありとあらゆる拷問にかけるのだ。
自分でも何のためやらわからないで、
ただむしょうに打つ、たたく、蹴る、
しまいには、いたいけな子供の体が
一面、紫色になってしまった。
しかるに、やがてそれにもいや気がさしてきて、
もっとひどい技巧を弄するようになった。
というのは、実に寒々とした厳寒の季節に、
その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。
それもただ、その子が夜なかに用便を教えなかった
というだけの理由にすぎないのだ。
いったい天使のような、無邪気にぐっすり寝入っている、
五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせる知恵が
あるとでも思っているのかしら、そうして、もらした
きたない物をその子の顔に塗りつけたり、むりやりに
食べさせたりするのだ。しかも、
これが生みの母親のしわざなんだからね!
この親は夜よなかにきたないところへ閉じこめられた哀れな
子供のうめき声を聞きながらも、平気で寝ていられるというんだからな!
おまえにわかるかい、まだ自分がどんな目に会わされているかも
理解することができない、小っちゃな子供が、暗い寒い便所の中で
いたいけな拳を固めながら、痙攣に引きむしられたような胸をたたいたり、
邪気のないすなおな涙を流しながら、
『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ――
え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が説明できるかい。
僕の弟で、親友で、神聖な信仰者のおまえは、いったい何の必要が
あってこんな不合理が創られたものか、説明できるかい!
この不合理がなくては人間は地上に生きて行かれない、
なぜなら、善悪を認識することができないから――などと、
人はよく言うけれど、そんな代価を払ってまで、ろくでもない
(神の国の)善悪を認識する必要がどこにあるんだ?
認識の世界全体をあげても、この子供が『神ちゃま』に流した
涙だけの価値もないではないか。僕は大人の苦悩のことは言わない。
大人は禁断の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。
みんな悪魔の餌食になってしまったってかまいはしない、
僕がいうのはただ子供だけのことだ、子供だけのことだ!………
より高き(神の世界の)調和などは平に御辞退申し上げるよ。
そんな調和は、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固めて、
われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、
『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら値しないからだ!
なぜ値しないかといえば、それはこの涙があがなわれることなしに
打ちすてられているからだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない、
さもなければ調和などというものはあり得ない。
ただ、何によって、何をもってあがなおうというのだ?
いったいそれは可能なことであろうか?
復讐によってあがなわれるというのか?
僕には復讐なんか用はない、
暴虐者のための地獄など、何になるんだ。
すでに罪なき者が苦しめられてしまった暁に、
地獄なんかが何の助けになるんだ!
第一、地獄が存在していてどんな調和があるんだ。………
――いいかい。仮りにだね、おまえが最後において、
人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、
人類の運命の塔を築いているものとしたら、
そのためにただ一つのちっぽけな生き物を――
例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った
女の子でもいい――是が非でも苦しめなければならない、
この子供のあがなわれざる涙なしには、その塔を建てる
ことができないと仮定したら、おまえははたしてこんな条件で、
その建築の技師となることを承諾するか?
さあ、偽らずに言ってくれ!」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)の云いたいことは
こんな御時世ですし皆様も分かると思います…。
正しさというものを形而上学的な救い主として作り上げることは、
現世の購えない悲劇を決して救い得るものではない。
寧ろ、世界の購えなさの悲劇から眼を逸らす為に機能すること…。
アルヴァー
「そなたは救われるかも知れぬというに」
オードニオー
「救われる?救われるだと!?」
アルヴァー
「そなたが苦悶をひとたび――
まことの苦悶の悔恨をひとたび呼び起こせればな」
オードニオー
「………悔恨、悔恨だと!
どこでそんな馬鹿な口まねを教わった。
呪われろ。悔恨などと!
悔恨が死者を救うことが出来るか。
ずたずたの死体を――
粉々になった死体を元通りにできるのか。
天使の大群こぞっての祝福も、
家族を失った女の苦しみを吹き飛ばしえぬ!
償いの為にいかに心血をほとばらせようとも、
それにはみなし児の涙一しずくの重みもない!」
(コールリッジ「悔恨」)
世界を真摯に見つめたときに見えてくる、
購いのなさとしての、世界――
「なぜ、犬や鼠に命があるのに、コーディリアには命がないのか?
これは、シェークスピアの「リア王」のなかで大きく口を開いた最後
の傷口であり、リアの他のどの瞬間の傷口よりも深く抉り出された
傷であって、分岐点の一つとなっています。
問題は何か?
それこそ最も深遠なる問題、
”善の善なるは何か?”
であると私は思います。
そしてシェークスピアのリア王はこの問題に対して安易な、
つまらぬ解答を決して与えないからこそ、この問題を
取り扱った最も偉大な悲劇作品と言えるのです。………
「なぜ、犬や馬や鼠に命があるのに、お前の命はないのか?」
――そうです、この劇の最後に我々が感じるのは、
死は実に恐るべしということ、死んだのがコーディリアであるゆえに、
いっそうそう感じるのです――
…そして、ひとたびコーディリアを知った以上、死とは何なのか?
コーディリアを十分に知り尽くすことが、
劇のヴィジョンの核心を知ることになる筈です」
(ジョン・F・ダンビー「悲劇」。「シェイクスピアとその世界」より」)
あらゆる答えのなさ、購いの不可能さが、
リア王をリア王として成立せしめるがように、
AIRをAIRとして成立せしめている。
それは、決定的な、世界に穿たれる傷痕。
そして、私達は決してその傷痕から逃れることはできない。
なぜならば、私達は全てみな、死ぬからです。
その時、私達に傷痕が穿たれる。絶対的に。
前回は、被投と投企について書きましたね。
自ら死を先駆的了解して、運命を生きるときに、
その運命と為る道を自ら決意すること。
それは、果たして、何から生まれるのか。
それは形而上学を廃した、遺産に系譜する自ら自身
の自らからしか生み出し得ない覚悟の、一つの運命。
この自らの自らなるものとしての了解がされた運命を、
ハイデガーは良心の呼び声と呼んだ。
「良心の呼び声を了解することで、現存在はダス・マン
として自己を喪っていたことがあらわになる。
決意性によって、現存在は自己のもっとも固有な存在
の可能性へと回帰する。この自己に固有な存在の
可能性が、本来的に捉えることができるのは、
最も固有な可能性としての死へと関わる、
了解しつつある存在においてである」
(ハイデガー「存在と時間」)
自らが、自らの為に自らの運命を生きる。
これは、とても当たり前で、そしてとても難しい事。
ここで述べる自らの為に生きるというのは、当然ですが、
ワガママに生きるとかそういう馬鹿げたことではありません。
自らの存在を了解し、自らを運命として生きる時、
人の為に為すこと(思いやり・優しさ・愛情・慈しみetc…)も、
またそれは自らの運命として、自らを通して(存在可能性の実現)
自ら在る在り方として世界に自らの運命として在ることができる。
それは、ドストエフスキーが批判した神の国を信じる人の
様態とは全く異なるものとして、現存在の実存する在り方なのです。
詳しく知りたい方はハイデガーの「ヒューマニズムについて」を
読まれることをお勧めします。ここで今私が語っていることは、
特に第八章第三節を読むことで更に深く識ることができるかと思います。
神の国(形而上学)の様態というのは、非在(存在しない)価値
を捏造して、その価値に認められる為に生きるという、
自らではなく、無に対して、生きる様態であって、それは
行動原理が無であり自らは無に奉仕するものに過ぎないので、
結局は、ニヒリズムの深い虚無に吸い込まれてゆくのですね。
「何物かが欠如していたということ、人間の周囲に一つの巨大な
空隙があったということ、このことをこそ禁欲主義的理想は意味するのだ。
「何のために苦しむのか」という問いの叫びに対する答の
欠如していたことが彼(人類)の問題であった。
―そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!………
…無への意志…人間は欲しないよりは、まだしも無(彼岸)を欲する」
(ニーチェ「道徳の系譜」)
ニーチェの最も重要なテーゼ、大変な問題提起です。
つまり、人間は悲劇(購えなさ)に耐えられないばかりに
無(非在)を在る事の価値として捏造したということ…。
それに奉仕することで、生の世界から逃れようとしたこと。
そしてこれは奉仕と云っても究極的には、無に対して価値を捏造し、
功利主義的に働くという、極めて打算的な様態です。
購えなさという世界の打算不可能性に耐えられなかった人間は、
打算する非在の価値を捏造して、生を破壊していったのです…。
神の摂理があって、美徳倫理が必ず(生前もしくは死後において)
報われるとしたら、その為に美徳に生きることは、合理主義打算
の為に生きている、自らを超えた捏造された価値への打算の為に
生きているその時、自らの存在は忘れられてしまう(存在忘却)
こんなの例え美徳や倫理と名乗ろうが、実際は美徳や倫理でも、
なんでもありません…。完全なる功利主義。しかも偽金目当ての。
本当に自らの魂に真剣に生きるということは、こういった偽金作りの
まやかしを全て打破して、自らが非在に差し掛かる存在であることを
了解し、自らの存在から、世界に関わりあう、ただそれだけが、
人間が本来的に生きるということを示す生き様なのです。
自らの存在から、世界に関わりあうとき、
偽金ではなく、自ら自身から本当の財が生まれるのです。
それは、自ら生く自らの魂。
自らの魂を自ら生きるということこそが、
古代ギリシア、黄金の時代の人々が生きたことであった。
そして、コーディリアが生きたことであり、
観鈴が生きたことであった。
自ら生きる人は、自ら生きることによって、
この世界の購えなさを、自らの生を持って購う。
ゲーテ
「神性」
人間は気高くあれ
情け深く、優しくあれ!
そのことだけが
我らの知っている
一切の物事と
人間を区別する
われら知らずして
ただほのかに感ずる
より高きものに幸せあれ!
人間はそのより高きものに似よ
人間の実際の振るまいが
それを信じさせるようであれ
自然は
無感覚だ
太陽は
善をも悪をも照らし
月と星は
悪しき人にもこの上なき良き人にも
同様に光り輝く
風とあふるる流れと
雷鳴とあられとは
ざわめきつつ進み
だれ彼となく捕えては
急ぎ通り過ぎる
同じように運命も
人々のなかに探りの手を入れ
子供の無垢な
巻き毛を捕えるかと見れば
罪を犯せる
禿頭をも捕える
永遠なる
大法則に従い
われらはみな
われらの生存の
環をまっとうしなければならぬ
ただ人間だけが
不可能なことをなしえる
人間は区別する
選び、且つ裁く
人間は瞬間を
永遠なものにすることができる
人間だけが
良き人には報い
悪しき人には罰し
人を癒し、人を救うことができる
またすべての迷いさまえる者を
結びつけ益を生み出す
われらはあがめる
永遠なものたちを
彼らも人間であって
最上の人間が小さい形でなし
あるいは欲することを
大きな形でなすかのように
気高き人よ
情け深く、優しくあれ!
うまずたゆまず
益あるもの、良くあるものを創れ
そしてかのほのかに感じられた
より高きもののひながたとなれ!
「まだお一人姫君がおられますぞ。
あのお二人の為にこの世に齎された呪いから、
人間の本性を購って下さるお方が」
(シェークスピア「リア王」)
私達は、こういった気高い人々に、責務を負っている。
それは、自らから呼びかけてくるよ。
私には分かるよ。
自らのなかの観鈴が呼びかけていることが。
私は私の運命として、観鈴と共に生きる。

観鈴。
私はお前を愛しているよ。
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Key「AIR Standard Edition」