「メディア全体主義」
フジテレビの「ワッツ!?ニッポン」という番組で、長崎少女殺傷事件の犯人少女が書いた絵を
『顔のない絵』として紹介していて…。髪型が書いてある絵なんですが…。
あの…この絵、カツラの絵で…
『←カツラ』ってちゃんと絵の横に書いてあるんですが…。
番組にでている犯罪心理学者
『この顔のない絵からは犯人が解離性人格障害であり
離人症であることが分かる』

他にも、「犯人は殺人に性的興奮を覚えていた」(テリ―伊藤)とか、
「この事件を社会の問題とかいうバカな意見がある。
この事件は個人の異常性の問題であって、社会とは何の関係もない」
(猪瀬直樹)
「精神鑑定の必要があるということは、普通に見えるからこそ狂っているということ」
(司会者の大塚範一)
とか…。妄想的な勝手な憶測の正気とは思えないコメントがオンパレード。
犯人を『異常』というカテゴリに嵌めこんで、日本社会は何も問題なく、事件と何も関係ないと
ピーチクパーチク忌わしく囀るコメンテーターども…。
こんな番組が全国ネットで土曜の朝から流されているようじゃ、
それこそ子どもは刃物を振り回したくなる訳ですよ…。
大人で逃げ道を色々知っている私でも耐えがたい強烈な抑圧の空間…。
日本という国に、ほとほと絶望する…。
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「ヤフーの国」
朝(6/11 AM8:15)、フジテレビの「とくダネ!」を見ていたんですね…。
長崎の少女殺傷事件の特集で…。犯人の少女の交換日記を番組内で分析していて…。
別になんてことない普通の交換日記なんですよ。別に、どこもおかしくない、本当に普通の交換日記で…。
「なんとかかんとかで〜なんとかかんとか〜。
びっくりしちゃった☆」
みたいな、文字の大きさを上手く替えて文章に面白さをだしていて、
書き手(犯人少女)のサービス精神のある日記なんですよ。
………番組内では、堤邦彦氏という芸能系では有名な精神科医が日記の分析をしていたのですが…。
堤邦彦精神科医の交換日記分析
「この日記は文字の大きさの変化に特徴がある。
ノートの罫線に従って文字を書いている箇所、
これは犯人が抑圧されていたことを示している。
そして、突然文字が大きくなったりするのは、
犯人の狂暴な攻撃性が噴出していることを示している」
(とくダネ!より)

…あまりに狂ったトンデモ分析ぶりに目の前が真っ暗になるのを感じました…
しかし、さらに「とくダネ!」の暴走は続き…。
犯人少女はイラストを書くのが好きで、犯人の少女が最後に書いたと番組中で云っているイラストが、
可愛いケモノ娘(大きな耳の生えた可愛いちっちゃなウサギみたいなケモノっ娘イラスト)なんですが…。
とくダネ!コメンテーターのコメント
「それまで普通の人間を書いていたのが、
異様な動物人間(の絵)に変わる…、異常な心理を感じますね」
(とくダネ!より)
…とくダネ!の連中にとって
ケモノっ娘の絵は異常心理の表れ…
…私はケモノっ娘大好きですよ…_| ̄|○
なんか…もう…本当に…文字の大きさの違いが攻撃性の現れとか、ケモノっ娘のイラストは異常心理とか、
無茶苦茶なことが云われてて、しかも、司会者もコメンテーターもさもそれが当然の如く振舞ってて…。
なにか…現実感が崩壊していって…私は夢を見ているんじゃなかろうかと…。
全国ネットのTV番組で明らかに狂ったことが正常なこととして語られ、
正常なことが狂ったこととして語られている…自分の見ているものが、信じられなくて…。
この番組の連中は自分達の言葉に全く疑いを持っていないし、この番組を
見ている大勢の視聴者のうち、私みたいに、番組の方が狂っていると思うのは、少数なんですよね…。
なんか…もう…。どうしたらいいのか…。強烈な絶望感…。この国は、愚劣の国だ…(涙)
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「カテゴリ化される魂」
………。また精神鑑定か…。
異常というカテゴリに犯罪を組み入れることこそが、
犯罪を拡大再生産している暴力そのものであること、
なぜ、世の人々は分からないのだろう…!
「精神鑑定は処罰の適用地点を法により定められた違反行為から、
心理学的かつ道徳的観点によって評価された『犯罪性』に転移する。
(中略)
精神鑑定の役割として重要なもの、それは処罰権力を違法行為とは
全く別のものに適用することを、科学的認識という形態の元に正当化すること。
(中略)
法医学精神鑑定は有罪もしくは無罪の者に対して差し向けるのではなく、
病気ではない人に対置された病人に対して差し向けるものでもない。
精神鑑定が差し向けるもの、
それは『異常者』のカテゴリーのような、何かである」
(ミシェル・フーコー「異常者たち」)
あらゆる人間の身体と内面を管理し操作することができると考える力、
それが精神医学であり精神鑑定、でも実際は管理も操作もしていない。
実際には、暴力を振るって従わせているだけ。
『私にはあらゆる全てが分かっている』
という傲慢こそが暴力であり、子供たちを苦しめているシステム、
そのシステムは、すなわち規律訓練システム『学校』
あらゆる全てを管理し内面から支配できると思っている大人の心性、
子供の心を操ることができると思っている学校や精神医学の心性こそが、
異常以外の何物でもないよ。システムの暴力で従わせているだけだ…。
人間は決して他者という限界性を超えられないからこそ、
他者を認め、その心を己のものとして判断しないという、
当たり前過ぎるほど当たり前の倫理が求められるのに…。
人間の歴史において事態は全く逆の方向へ推移していて…絶望的だ…。
人間はどこにいくのだろう…。プロメテウスのことを思うよ。
人類に火を与え、人類を一人立ちさせたと云われているプロメテウス、
然し、これにはもう一つの逸話があって…。
エウリピデスの伝えるところによれば、プロメテウスは人間から
『全てを見とおせる知』を奪い、忘却を与えたがゆえに、人間は
はじめて生きることができたという話…。
「――人間たちは薄暗い洞窟の中で何もせずにうずくまっていた。
人間たちは自分たちの死ぬ時を知っているからである。
そこへプロメテウスがやってきて、人間たちに忘却を与えた。
今は人間たちは自分たちが死ぬだろうことは知っていたが、
それがいつどのようにしてなのかは知らなくなった。
プロメテウスはこの生きる力を奪う知を人間から取り去ることで、
人間を束縛から解き放ったのだ。
人間たちのなかに生きる意欲が起きた。
プロメテウスはさらに付け加えて火を与え、
人間たちの意欲をさらに掻き立てたという――」
(リュディガー・ザフランスキー「人間はグローバル化にどこまで耐えられるか」)
知や発展とは素晴らしいだけのものではない。
そこには、人間を苦しめ滅ぼす知も、またある。
なぜなら、知の力は、暴力の力と一つであるのだから。
自由を奪い、魂を殺す規律訓練=規律暴力としての知、
内面管理の知=暴力…精神医学、学校教育。
あらゆるものが暴力的に管理され全ての先行きは
計算された通りに行われる世界、
それを地獄というのですよ。
地獄とは、希望のない世界、夢見ることのできない世界。
なんで、この国の人々は地獄をこんなに一生懸命作っているんだ…。
犯人の少女の為した人を殺めるという行為は
行為自体は決して許されない悪であるけれど…、
本当の狂気に陥っているのは、世の人々、彼女を精神鑑定に
掛けようとか叫んでいる世の人々の方でしょう…。
罪はその行為によって裁かれるべきであって、
社会が司祭(精神科医)によって犯人を生贄に祭り上げて
祝祭(絶対理性の勝利の祭り)を行うような状況は…地獄だ…。
なんて…酷い…事態だよ…。何千年も、全く変わらないのか…。
いや…寧ろ…近代になってから急速に破滅的に悪くなっている…。
ああ…。暗澹とした気持ちになるよ…。
「ここに一人の男がいる、
精神のなかの、如何なる場所も柔軟さを失わず、
突然、身体の左側、心臓のある方に、自分の魂を感じるということもない男が。
ここに一人の男がいる、
自分にとって生とは一つの点であり、
魂は切断面をもたず、
精神は始まりをもたぬ男が。」
(アントナン・アルトー「神経の秤」)
参考図書(amazon)
ミシェル・フーコー コレージュ・ド・フランス講義 『異常者たち』
…ぜひ、読んで欲しい。いかにして、精神医学という身体支配の暴力が社会を支配しているか。
…読んで、感じて欲しい…。
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「イマージュの試み」
ああ、詩性に開かれるファンタスマゴリーの名残を感じる……。
本当に…、残念な…悲しいことだ…。
彼女は…イマージュを試みることを、なぜ、諦めて、
なぜ、呪われた超越へと沈んでしまったのか…。
イマージュ、紅茶に浸したマドレーヌの味を想うこと…。
暖かい、懐かしい、喪われた故郷、ファンタスマゴリー。
美の繊細さは偽善に堕つることなく、豊かな優しさを保つ。
私が遥かに想うこと、それは限りないイマージュの試み。
それは、アウラを己の裡に輝かせ、愛を取り戻す試み。
それは群衆の裡から、私として再生することであり、
果てしない社会の暴力の有様から抜け出すこと。
確かにこの世界はより優れた魂の持ち主を傷つけるけれど、それでも…。
「この殺伐な世界に紛れ込み、群集に小突き回されている僕は、
背後の深い歳月に覚醒と苦難とをしか見ず、前途に、何一つ新奇なものを、
教訓も苦悩も、何も含んでいない暴風をしか見ない、困憊した人間に似ている」
(シャルル・ボードレール)
それでも、決して世界に阿ることなく、美を愛し、感覚を高め続けることを…。
傷のなかで、それでも、刃と鎧を取るのではなく、魂の美への愛を求めること。
そのとき、傷だらけの魂は知るだろう。苦しみのなかで、それでも繊細に生きるとき、
その生の向こうにある美の輝きに、ささやかな、優しい、暖かい、愛の歓びが在ること…。
「テオドール・アドルノには、ハインリッヒ・ハイネを論じた有名な論文がある。
題は、『ハイネという傷』。ハイネに限らない。
クリティーク(評論・批評)という名に値する
切実なクリティークの中には、必ず傷がうずいている。
近代におけるクリティークの系譜に伍する
すぐれた業績の下には、常に傷口が開いている。
ルソーという傷、シェリングという傷、ハイネという傷、
マルクスという傷、キルケゴールという傷、ニーチェという傷、
シュペングラーという傷、ハイデガーという傷、レッシングという傷、
フロイトという傷、アドルノという傷。
これらの大きな傷が自らを癒そうとするなかから、
それぞれの時代を生きるものが自らの経験を
重ね合わせるに足るクリティークが生まれてくる。
クリティークとは、いずれも、人に先んじて時代の痛みに分け入り、
ささやかながら、その痛みを癒すすべを己の身を持って示すことなのだ」
(ペーター・スローターダイク)
傷つきながらも、それでも、魂を放縦なる天使として翔ばすこと――
飛翔、この世界というデーモニッシュから解き放たれること。
「デーモンの支配は終る。
子どもと人食いからなる生き物として、
デーモンの征服者がデーモンの前に立つ。
新しい人間ではない。
非・人間、新しき天使である。
おそらくそれは、タルムード(ユダヤ聖典)に従うなら、
一瞬一瞬、新たに無数の群れとなって生み出され、
神の前で声を張り上げては静まり、
無の彼方へ消え去っていく、天使たち」
(ヴァルター・ベンヤミン)
私の翼は酷く傷ついているけれど…
それでも…子どもたちと居るとき、
子どもたちを大切に想い、愛するとき、
これより美しいものは他にはない、
美しい歓び、新たなる飛翔、馥郁たる優しく豊かな陶酔――
子どもたちの魂を想い、遥かなファンタスマゴリーを想い、愛している、
愛している、愛している、愛している、
イマージュの試み――それは魂のグルナデイン(柘榴酒)
愛を想うこと、喪われた子ども時代を想うこと、
そして、子どもたちを想うこと――
それが、魂の倫理であり、そして、途方もない愛の救済だ――
「私は士官になりたての若者が、はじめて
きりっとした制服を着用したところをみたことがあります。
ウェディングドレスに身をつつんだ若い花嫁をみたこともあります。
王女のようなその女性は豪華絢爛なドレスをきてとても幸せそうでした。
ただ私は、今晩に目にした四才の少女ほどの幸せは見たことがありません。
少女は青い新しいドレスとピンクの新しい帽子を買ってもらって、
ちょうどそれを身につけた姿はすばらしく、
だれもがろうそくを取りに走りました。
というのも私の部屋の光が窓から照らすだけでは
十分明るいとはいえなかったからです。
もっと灯りが必要だったわけです。
少女は人形のようにまっすぐ立ち、
両腕はドレスから苦しそうなほどまっすぐ出て、
指はせいいっぱい開かれていました。
そしてなんてことでしょう、
彼女の目から、全身から、幸福があふれだしていたのです!
『明日おまえはこの新しい服でおでかけするんだよ』
お母さんがいうと、少女は帽子を見上げ、
服を見下ろすとはれやかな笑顔をみせました。
『おかあさん』
少女はこうふんして言いました。
『こんなすてきな新しい服をきたわたしを見て、子犬はどうおもうかしら?』」
(クリスチャン・アンデルセン)
ああ、愛している…少女の笑顔を――少女の幸せを――。
少女たちの情熱、若若しい魂の焔を、私は愛している――
「愛は、追憶された愛として初めて幸福なものである」
(セーレン・キルケゴール)
もし、願いが叶うならば、どうか、子どもたちに、歓びを――
子どもたちの歓びが、私の傷ついた胸を暖かく癒す。
ファンタスマゴリーを想うことしかできない大人にとって、
子どもたちの幸せは途方もない救済、途方もない歓びだ。
名声なき栄誉に包まれ
光輝なき偉大さを秘め
報酬なき尊厳を保ちつつ
(ヴァルター・ベンヤミン)
ああ、私のグルデナイン、愛しい子らよ――。
「グルデナイン」
恋よ!熱のなかでそれほど軽くない病よ!
彼女を見つめているだけで僕は酔ってしまう。
その唇の色にも似た、柘榴酒。
すべての悩みからぼくを救ってくれる。
(レーモン・ラディゲ)
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「暴力と聖なるもの」
「犯行後、現場に十数分「死ぬのを待っていた」と女児」(ヤフーニュース)
…なんてことだ…。
…戦慄…。震えがくるね…。魂が震撼する…。
これは…単純な犯罪や詩的殺人とも明らかに違う、…原初的な何かがある…。
憎悪や狂気やポエジーでは図れない領域…。…呪われた部分…神的領域…。
犯人の子が人間の領域を脱して超越したことは間違いない……。
もう、戻れないね…。この子は深淵の顎の中の虚無を見た…。
おそらく、この子を精神分析しても、何も分からないと思いますね。
象徴暴力による規律訓練の場である学校で、こういった神的暴力が
起こることを考えるならば、社会全体を考察して行く必要が、絶対にありますよ…。
社会に内在している暴力を見据えた上で、対抗軸として暴力ではない、
何かを求めるようにしなければ…。
対抗軸が神的暴力に戻って超越するという方法では絶対ダメなんだ…。
殺された女の子は、死にゆくとき、どんな眼差しをしたんだろう――
彼女の最後を、親友に裏切られ殺められ、己の死を確認させられる
その最後の眼差しを想うこと、逃げずに、暴力を見据えること、
その先に初めて、希望が、僅かでも、ある。
人間が生きることは、常に暴力的なこと、外傷を与え/受けることを
考え尽くした上で、その隠された構造を分解/再構築して、暴力性を繋がりの
中のホメオスタティックな互助性において和らげてゆくことをめざす…。
他者の眼差しを己が想うこと、徹底した個人的な魂の試みの中に、はじめて、
暴力に委ねない交流の方法というのがあるのだと信じるよ…。
その時、神的な領域は、虚無ではなく、光になるのだと、信じる。
私たちは供儀を越えなくてはいけないよ…。哀しみを繰り返さない為に。

――愛は永遠の相の元に――
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「ムゼアール」
まずは、以下の画像をご覧下さい。
長崎で起きた悲しい事件の犯人の少女がサイトに飾っていたとされる画像です。

………ああ………。
美、ここに美があるものを否定できるものがあろうか!
今、この絵は圧倒的な美の力を、我が胸に振う…。
ああ、プラドで見たゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」が胸を満たす――
叫ばずにはおれない――マルドロール!!
マルドロールよ、君は勝利者となった!
マルドロールよ、君は<希望>に打ち勝ったのだ!
これからは、絶望が君の最も純粋な実質を栄養として育つことだろう。
これから君は、決然とした足取りで悪の道に戻るのだ!
ぼくは、いわば苦痛には辟易しているけど、
君が竜に加えた最後の一撃は、自分の内部でも確かに感じられたよ。
ぼくが苦しんでいるかどうかは、自分で判断してくれ。
だが、ぼくは君が怖い。
見たまえ、見たまえ、遥か彼方へ逃げ去っていくあの男の姿を。
すばらしい土壌である彼の上に、呪いが葉叢をびっしりと生い茂らせた。
彼は呪われ、呪う。
君はサンダルをどこに向けているのか?
どこへ行くんだ、屋根の上の夢遊病者のようにためらいながら?
君の邪悪な運命が達成されんことを!
マルドロールよ、さらば!
(ロートレアモン「マルドロールの歌」)
絶対少女におけるサロメ的な、ロートレアモン的なもの、
優れすぎるセンシティヴと地獄のようなパッションの顕出、
ああ、なんという、美、美、圧倒的な美が、我が魂を振幅させる!
高過ぎる魂は、俗なるファッケル(拒火)には耐えがたき。
「あらゆるものがなんと騒がしくうんざりさせるものか」
(カール・クラウス「詩となった言葉U」)
ああ…彼女にフェイクではなく、真とまじわりがあれば…。
ルーブル、プラド、トプカピ、ウィーン、バチカン、ウフィツィ、グッゲンハイム…
無念…無念だ!!感性の優れたるものが、
その感性を鈍磨させられ、その反抗に刃を穿つ、
なんたる悲劇、なんたる無念の美!
リルケは云う、
「美しきものは恐るべきもののはじまりである」
(ドゥイノの悲歌)
だが…その恐ろしさの先に、赤く輝くオルギアの果てに
果て無き、果て無き、果て無き、Promisse du bonheur.
そは人を殺めることから無限に遠いPrismen.
「いま、サン・ラザール駅の絵が掛かっているジュー・ド・ポーム
のなかに、プルーストのエルスチールとヴァレリーのドガが、
平和のうちに間近に、だがつつしみ深く互いに離れ、収まっている」
(テオドール・アドルノ「プリズメン」)
if…Wienerwald、月光ふりそそ
ぐテラスで静かに踊ろう――
本当の、月の光を見せてあげることができれば…
少女の魂をどれだけ瑞々しく羽ばたかせることができたか…。
無念だ…。文化の死んだ国が魂を殺す。
忌まわしき偽りの光に満ち溢れたこの国!
ただ、ポエジー、エクリチュールへと賭す、唯なる賭け…。
「私は私の詩が少女に読めるものであって欲しいと望む」
(ロートレアモン「ポエジー」)
ああ、ロートレアモンが私でなくて、なんであろうか!
愛という運命があるからだ。詩人の運命が。
愛の父よ
あなたの竪琴に
彼女の胸にかよう一節でもあるならば
かの胸を爽やかに蘇らせて下さい
私は一羽の白鳥を抱き上げ
白鳥は天使となりて天へと飛びたつ
死んだ白鳥……
一羽の白鳥が打ち捨てられていた
湖水のほとりの水泡に。
白き天使は身を投げた
空の扉は閉ざされて
ただ地上の愛だけが
魂の渇きを癒している
美、魂の歌よ、胸へと…全てと。

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コラム「詩の滅びた世界で」
「こういう詩を書いたりする心優しい少女が、
同級生に「ぶりっこ」などと非難され、
衝動に任せて器物損害感覚でスパッといってしまう」
(「KGV ★ ミルキー歌姫日記」さん)
「ああ、神よ!
いったい私には、あの不幸が起きる前の半年間続いたような、
完全に冷静で、それでいて極めて能動的な状態で過した時期に
経験したことを、もう一度経験することはできないのでしょうか?
私は通常の目覚めた意識の中で、私の精神が、
私の能動的な意識が前もって定めたものに従い機能する、
そのような状態に到達しようと決意し、
それに向かってあらゆることをやり、
もてる力をすべて出しきったのに、
すべては無駄になってしまったのだ!」
(「G・I・グルジェフ「生は<私が存在し>て初めて真実となる」)
「詩が殺人的であるべきか否か、
それを知ろうとしたことから、すべては起こったのです」
(アルベール・カミュ「カリギュラ」)
長崎で起きた少女が少女を殺めた事件の、加害者少女のサイトログを読んだのですが…。
「殺さないで、沢山殺して殺して殺して殺して…
森の木も人の手によって焼き払われたりしたよ。
「自然も生きているのだから、息をしているのだから」
木や花も動いたり、話したりはしないけど、
生きているのだよ……。
生きているのだから、全て生きているのだから。
神様はいるのですか……助けて下さい…」
(加害者の少女が書いたとされている詩)
このサイトログは…現代社会における犯罪心理と倫理を考察するに必須とも云える、
第一級の文献学的資料ですね…。ああ…。非常に興味深い…。
徹底的な分析の必要性があると云えるでしょう…。凄い資料だよ…。
このログからは原初/野性の神的暴力の顕現をはっきりと解析し析出することができる…。
ああ、この少女と話してみたい…。初期は拘束されるにしても一年ぐらいで出てくるんですよね。
取材できないかな…。本当に興味深い…。現代社会における魂を考える上で必須の人材だ…。
話してみたいな…。非常に、非常に興味深い。
この少女にはある種の呪われた聖性の存在を確認することができる…。
このサイトログからはバトル・ロワイアルが描いた象徴暴力(神話的暴力)に対しての
近代社会を侵犯する対抗軸として神的暴力への意識を感じることができる。
オカルト、隠されたものへの志向…。
小説を書くということ…。詩を書くということ…。
ううん、残念だ…エクリチュールへ向かうのではなく、
実際の他者の破壊という
方向性へと向かったことが残念でならない…。
…救えるものはエクリチュールだけだ、
ああ、ぜひこの少女には体験を乗り越え、小説家か詩人になって欲しい。
在外する存在となったこの少女こそ、その立場をこなす場所に居るのだ。
この少女のサイトログを読んでいて…アドルノの言葉を思い出したよ…。
「個体の存在が否定され、死が全体を覆い、
全ての仔牛が黒い夜の如く、個体的生を真っ黒にするとき、
詩をつくることも、哲学することも、不可能となる」
(テオドール・アドルノ)
詩と哲学が死に絶えた社会で…
それでも哲学を模索し詩を創ること…
そのエクリチュールの試みだけが唯一倫理的なりえるんだ…。
我々は以下のバタイユの言葉を、今こそ噛みしねばならない…。
「人々相互のまじわりの普遍性が告知される。
それは人殺しを断罪する普遍的な禁令である。
しかし、一方でその禁令の侵害が、まさに奥深いまじわりを、
儀式として成就する道を開く。
聖なる領域へと到達することは、忠実なひとたちにしか許されていないが、
しかし、なおかつ忠実さに背く背理の裡にしか、与えられないものである。
もしまじわりが、私たちの裡に宿る崇高な、至高な、聖の部分を対象とする
ならば、それは明確に規定されている短い時間(祝祭の刻)のあいだでも、
至高の諸行為に対立するさまざまな掟を侵害することを前提として孕む。
あからさまな形では、祝祭の結節点における禁令の侵害行為である
供儀は、犯罪の意味を宿している」
(ジョルジュ・バタイユ「呪詛する道徳の軍事的勝利と破綻」)
ああ、一人の少女の呪われた至高性への挑戦が、
私も含めた日本中の人々の手によって、
一つの祝祭の供儀へと貶められてゆく…。
ああ、なんという世界なんだ、ここは!!
この世界は数千年前から、何一つ変わっていない!!
祝祭、呪われし、聖なる、「購い」に、人を惨殺して熱狂するこの社会!
ああ…。
ここは、地獄界第八圏…。
参考サイト&参考作品(amazon)
「KGV ★
ミルキー歌姫日記」さん…考察系の良質なサイトさん。
「生は<私が存在し>て初めて真実となる」…引用元図書。かなり難解。読むならば精読必須。
「カリギュラ」…引用元図書。お勧め。ぜひ一読を。私は…憧憬しつつ、カリギュラになれない…。
「言葉とエロス」(「呪詛する道徳の軍事的勝利と破綻」収録)…引用元図書。お勧め。考えさせられる。